人物

ジュゼッペ・ガリバルディ

Giuseppe Garibaldi
AD1807年7月4日 – AD1882年6月2日(享年74)
イタリア王国重要度 5

概要

ニースの船乗り。マッツィーニの青年イタリアで反乱に失敗して死刑判決、南米へ。ブラジルとウルグアイで12年ゲリラ戦。赤シャツ。妻アニータ。1848年に帰り、ローマ共和国を守って負け、アニータが逃避行で死んだ。ニューヨークで蝋燭を作った。1860年、千人隊。王に南を渡した。カプレーラ島で農業。「二つの世界の英雄」。リンカーンが北軍の指揮を打診した(奴隷解放を条件にして断った)。

関わったできごと(1)

ガリバルディの千人隊AD1860年5月11日 · 率いた

本文

1807年7月4日、地中海の港町ニースで、沿岸を行き来する船の船長の家に生まれた。ニースは当時ナポレオンのフランス帝国に属し、1814年からはサルデーニャ王国のものとなった。少年は勉強よりも海を好み、15歳で船乗りになって、黒海から地中海まで各地の港を回った。ロシアの港タガンログで、イタリアの統一と共和政を説く亡命者に出会い、生涯の目標を得たと言われる。当時のイタリア半島は、オーストリアの支配する北部、教皇の治める中部、ナポリとシチリアの王国などに分かれていた。

ジュゼッペ・ガリバルディの肖像
ジュゼッペ・ガリバルディの肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1833年、マッツィーニが率いる秘密結社「青年イタリア」に加わり、翌年、ジェノヴァで海軍の反乱を起こす計画に関わった。計画は事前に漏れ、彼は国外へ逃れて、欠席裁判で死刑を言い渡された。逃げ込んだマルセイユの新聞でそれを知ったという。1835年ごろ、南アメリカへ渡った。

それから12年あまり、彼は南アメリカで戦い続けた。ブラジル南部でブラジル帝国からの分離を目指したリオ・グランデ共和国のために、私掠船を率いて海と川で戦った。そこで、すでに結婚していた18歳の女性アニータと出会い、連れ去るようにして伴侶とした。アニータは馬に乗り、銃を取って夫とともに戦った。のちにウルグアイに移り、首都モンテビデオを守るため、亡命イタリア人の義勇兵の部隊を作った。食肉処理場の作業着として作られた赤いシャツを安く手に入れて制服にした、と伝えられ、これが彼の部隊の象徴「赤シャツ」の始まりとされる。南アメリカの草原の騎馬の民ガウチョの戦い方、少数で素早く動き、不意を突く戦法を、彼はここで身につけた。

1848年、ヨーロッパ各地で革命が起きると(1848年革命)、彼は60人ほどの仲間とイタリアへ戻った。翌1849年、教皇が逃げ出したローマで、マッツィーニたちが共和国を宣言すると、彼はその防衛を任された。教皇を戻そうと送り込まれたフランス軍を相手に、4月末から7月の初めまで2か月あまりローマを守ったが、ついに力尽きた。降伏の直前、彼はサン・ピエトロ広場に兵を集め、私が与えられるのは飢えと渇きと強行軍と戦いと死だけだ、祖国を愛する者はついて来い、と呼びかけたと伝えられる。4000人ほどがローマを脱出したが、オーストリア軍に追われて散り散りになった。身ごもっていたアニータは逃避行の途中で熱病に倒れ、ラヴェンナに近い沼地の農家で、夫の腕の中で息を引き取った。

1848年革命に関わる図版:Horace Vernet-Barricade rue Soufflot
1848年革命Wikimedia Commons Horace Vernet · Public domain

再び亡命した彼は、北アフリカのタンジールを経てニューヨークに渡り、スタテン島で電話の発明者の一人とされるメウッチの蝋燭工場で働いた。その後は船長として南アメリカやアジアの海を航海した。1854年にイタリアへ戻り、サルデーニャ島の北に浮かぶ小島カプレーラを買って、畑を耕して暮らし始めた。

1859年、サルデーニャ王国がフランスと組んでオーストリアと戦うと、彼は「アルプス猟兵」を率いて北イタリアで戦った。しかし翌年、サルデーニャの首相カヴールが、援軍の見返りとして故郷ニースをナポレオン3世のフランスに譲ると、彼は激しく怒った。彼は生まれ故郷を失い、議会でカヴールを、自分を外国人にした男だと非難した。

1860年5月、シチリアで農民の反乱が起きたと聞くと、彼は千人あまりの義勇兵を2隻の船に乗せてジェノヴァ近くの浜から出航した(ガリバルディの千人隊)。兵の多くは学生や職人で、武器も古かった。シチリア西端のマルサーラに上陸し、カラタフィーミで数で勝るナポリ王国軍を破り、島の都パレルモを落とした。各地の農民や若者が加わって軍は膨れ上がり、8月には海峡を渡って本土に上陸、9月にはナポリに入った。わずか5か月ほどで、南イタリアの王国が崩れたのである。

ガリバルディの千人隊に関わる図版:Partenza da Quarto
ガリバルディの千人隊Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

共和主義者の彼にとって、国王に国を渡すことは本意ではなかった。しかし、統一を優先すべきだと考え、10月、ナポリの北のテアーノで、北から南下してきたサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を迎えて、征服した南イタリアを差し出した。地位も報酬も断り、ひと袋の種を持ってカプレーラ島へ帰ったという。翌1861年、イタリア王国が成立した(イタリア統一)。

だが、ローマはまだ教皇の手にあった。1862年、ローマを目指して兵を挙げた彼は、アスプロモンテで、フランスとの衝突を恐れたイタリア王国の軍に撃たれて足を負傷した。1864年にロンドンを訪れると、数十万の人々が通りを埋めて歓迎した。1866年のオーストリアとの戦いでは勝ち進んでいたが、政府から撤退を命じられ、「従う」とだけ電報を打って兵を引いた。1867年には再びローマを目指し、メンターナでフランスと教皇の軍に敗れた。ローマがイタリアのものになったのは、1870年、普仏戦争でフランス軍が引き揚げたときだった。その普仏戦争で、共和政になったフランスのために、彼は老いた体で義勇兵を率いてプロイセン軍と戦った。

1861年、アメリカで南北戦争が始まると(南北戦争)、エイブラハム・リンカーンの政権は彼に北軍の将軍の地位を打診した。彼は全軍の指揮権と、奴隷制の廃止の宣言を条件に出し、話はまとまらなかったとされる。

南北戦争に関わる図版:Battle of Gettysburg, by Currier and Ives
南北戦争Wikimedia Commons Nathaniel Currier and James Merritt Ives · Public domain

晩年はカプレーラ島で、持病のリウマチに苦しみながら畑を耕し、回想録や小説を書いた。1882年6月2日、74歳で亡くなった。南アメリカとヨーロッパで自由のために戦った「二つの世界の英雄」として、彼の名はいまもイタリアのほとんどの町の通りや広場に残っている。王政に国を渡した共和主義者、権力を求めなかった征服者という矛盾を抱えながら、統一イタリアの最も愛される英雄であり続けている。

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