インディラ・ガンディー
概要
インド初の女性首相。バングラデシュ独立を支援し、緑の革命を進め、そして非常事態宣言で民主政を止めた。
関わったできごと(1)
バングラデシュの独立AD1971年 · 支援した側本文
インディラ・ガンディーは1917年11月19日、北インドのアラーハーバードで、ジャワハルラール・ネルーの一人娘として生まれた。祖父のモーティーラール・ネルーは裕福な弁護士で、インド国民会議派の指導者だった。邸宅には独立運動の指導者たちが出入りし、父も祖父も母も、たびたび英国の官憲に投獄された。少女のインディラは、子どもたちを集めて伝令や見張りの「猿の軍団」を作ったという。

母が病弱だったため、スイスで過ごした時期もあり、詩人タゴールの学園に学んだ後、英国のオックスフォード大学に入ったが、卒業はしなかった。1942年、パールシー(ゾロアスター教徒)の家に生まれたジャーナリストのフィーローズ・ガンディーと、宗教の違いに反対する声を押し切って結婚した。姓のガンディーは夫のものであり、独立の父ガンディーとは血のつながりは無い。結婚の半年後、夫婦は独立運動のために逮捕され、彼女は8か月ほど獄中にいた。
1947年にインドが独立すると、首相となった父の官邸に住み、公式の女主人として父の外遊にも付き添った。夫とは別居状態になり、夫は1960年に死んだ。インディラは1959年に会議派の総裁を務めるなど、党内で地歩を固めた。

1964年に父が死に、次の首相シャーストリのもとで情報放送相になった。1966年1月、シャーストリが急死すると、党の長老たちは扱いやすい人物とみて、48歳の彼女を首相に担いだ。野党からは口をきかない人形とからかわれた。だが彼女は、長老たちの思惑をすぐに裏切った。1969年、党を二つに割って長老派を追い出し、主要な14の銀行を国有化した。1971年の総選挙では「貧困をなくせ」を掲げて圧勝した。同じ年、独立の際に藩王たちに約束されていた年金と特権を、憲法を改めて廃止した。
1971年、東パキスタンで独立を求める運動を西パキスタンの軍が弾圧し、1千万人ともいわれる難民がインドへ逃れてきた。インディラはソ連と友好条約を結んで後ろ盾を固め、12月にパキスタンと開戦した。インド軍は2週間足らずで東パキスタンのパキスタン軍を降伏させ、9万人を超える捕虜をとった。東パキスタンはバングラデシュとして独立した(バングラデシュの独立)。アメリカはパキスタンを支持して艦隊をベンガル湾に送ったが、彼女は譲らなかった。この勝利で、インディラの人気は頂点に達した。1974年には、インドは平和目的の核爆発と称して最初の核実験を行った。
農業では、高収量の小麦や稲の品種と化学肥料、灌漑を組み合わせる緑の革命が、1960年代の後半から本格的に進んだ。飢饉の危機にあえぎ、アメリカの食糧援助に頼っていた国は、1970年代には穀物をほぼ自給できるようになった。ただし、その恩恵は灌漑の整った地域と豊かな農民に偏った。

1975年6月、アラーハーバードの高等裁判所は、1971年の選挙で彼女が公務員を選挙運動に使った不正を認め、当選を無効とした。辞任を求める声が高まる中、6月25日、インディラは国内の混乱を理由に非常事態を宣言した。野党の指導者をはじめ、数万人ともいわれる人々が令状なしに拘束され、新聞は検閲された。その陰で、次男のサンジャイが権力を振るい、都市のスラムの強制撤去と、人口を抑えるための断種手術が進められた。手術を受けた人は1976年だけで数百万人にのぼり、その多くは強制や圧力によるものだった。
非常事態は21か月続いた。1977年、彼女は自ら選挙を行うと発表し、そして大敗した。インドの独立後、初めて会議派が政権を失った。だが野党の連立政権は内紛で崩れ、1980年の選挙でインディラは首相に返り咲いた。この年、後継者と目していたサンジャイは、自ら操縦する小型機の事故で死んだ。首相の在任は、通算で16年近くになる。
晩年のインディラを悩ませたのは、北西部パンジャーブ州のシク教徒の分離運動だった。過激な指導者ビンドランワーレと武装した支持者たちは、シク教の総本山アムリトサルの黄金寺院に立てこもった。1984年6月、インディラは軍に突入を命じた(黄金寺院への突入)。戦車まで使われた作戦で、武装勢力とともに、居合わせた巡礼者を含む多くの人が死んだ。聖地を汚されたシク教徒の怒りは深かった。
1984年10月31日の朝、ニューデリーの首相公邸の庭で、インディラはシク教徒の護衛2人に撃たれて死んだ。66歳だった。シク教徒の護衛は外すべきだという進言を、彼女は退けていたという。暗殺の後、デリーなどで報復の暴動が起き、数千人のシク教徒が殺された。首相を継いだ長男のラジーヴも、1991年に暗殺されている(ラジーヴ・ガンディーの暗殺)。

インドを南アジアの大国にした強い指導者として、今も彼女を慕う人は多い。一方で、非常事態の21か月は、インドの民主政が一人の手で止められうることを示した。その両方が、彼女の遺産として語られている。