できごと

水俣病

Minamata disease
AD1956年
重要度 5
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1956年の版図を描いています(22勢力)。

概要

1956年5月、原因不明の中枢神経の疾患として公式に確認された。手足がしびれ、言葉が不明瞭になり、視野が狭まる。原因は、工場が排出したメチル水銀である。魚に濃縮され、それを食べた人に及んだ。胎盤を通って、胎児にも及んだ。企業は排水を続け、行政は認定を絞り、患者は差別された。公式の確認から国が公害と認めるまで12年かかった。2013年、水銀に関する国際条約が「水俣条約」と名づけられた。

場所

水俣
32.21°N 130.40°E · 日本・熊本県

本文

水俣は、熊本県の南の端、不知火海(八代海)に面した町である。1908年、実業家の野口遵がここに工場を建て、カーバイドと化学肥料を作り始めた。のちのチッソ(当時の社名は新日本窒素肥料)である。戦後、工場はプラスチックや薬品の原料となるアセトアルデヒドや塩化ビニルを大量に作り、日本の高度成長を支えた。町の税収の大きな部分をこの会社が占め、市の政治にも会社の関係者が多く加わっていた。水俣は、一つの会社とともに栄えた企業城下町だった。

1953年ごろから、海辺の集落で猫の様子がおかしくなった。よろけ、くるくると回り、けいれんし、ついには海に飛び込んで死ぬ。地元では「猫踊り病」と呼ばれた。同じころ、カラスが飛べずに落ち、海には魚が浮いた。そして人間にも、手足がしびれ、うまく歩けず、言葉がもつれる者が出始めた。

熊本大学医学部公衆衛生学教室は1956年9月から現地調査を開始し、1957年1月に詳細な調査報告書を学会誌に発表した。写真は同調査時の患者の男性。
熊本大学医学部公衆衛生学教室は1956年9月から現地調査を開始し、1957年1月に詳細な調査報告書を学会誌に発表した。写真は同調査時の患者の男性。Wikimedia Commons 熊本医学会 · Public domain

1956年5月1日、チッソの附属病院の院長だった細川一が、原因の分からない中枢神経の病気が多発していると水俣保健所に届け出た。この日が、水俣病が公式に確認された日とされる。症状は手足の先から始まるしびれ、体の動きを思うように制御できない運動失調、言葉の障害、まわりが見えなくなり筒をのぞいたように視野が狭くなる症状、耳の聞こえにくさなどで、重い場合はけいれんや意識の混濁を経て死に至った。

1956年8月、熊本大学医学部に研究班ができた。初めは伝染病が疑われ、患者の家が消毒され、患者は隔離された。これが「うつる病気」という誤った見方を広め、長く続く差別の始まりになった。同じ年の11月、研究班は、原因は魚や貝を通じて体に入った重金属による中毒だと発表した。1959年7月、研究班は有機水銀が原因物質だと特定した。工場ではアセトアルデヒドを作るときに水銀を触媒に使い、その過程でできたメチル水銀が排水とともに海へ流れていた。研究の手がかりの一つは、1940年にイギリスで報告されていた、有機水銀を扱う工場の労働者に現れた症状の記録だった。それが水俣の患者の症状とよく一致していた。

1950年代半ば、熊本大学医学部の調査により、水俣市の中でも明神、月の浦、出月、湯堂の4集落で水俣病の患者が多発していることが判明した。写真は湯堂の漁村。
1950年代半ば、熊本大学医学部の調査により、水俣市の中でも明神、月の浦、出月、湯堂の4集落で水俣病の患者が多発していることが判明した。写真は湯堂の漁村。Wikimedia Commons 熊本医学会 · Public domain

同じ1959年10月、細川は工場の排水を直接猫に与える実験をした。「猫400号」と呼ばれた猫は、水俣病と同じ症状を示した。細川はこの結果を会社に報告したが、会社は実験の続行を止め、結果を公にしなかった。この事実が明るみに出たのは1970年である。癌で入院していた細川は、病床で裁判のための証言をし、その年のうちに亡くなった。この証言は、後の裁判で会社の責任を示す重い証拠になった。

会社は排水を止めなかった。それどころか1958年、排水の出口を水俣湾の奥から水俣川の河口へ移した。その結果、汚染は不知火海の広い範囲に広がり、対岸の島々や鹿児島県の側にも患者が出た。会社や業界団体、そして一部の学者は、有機水銀の説に反論し、戦時中に海に捨てられた爆薬が原因だという説や、腐った魚から出る物質が原因だという説を唱えた。こうした説が、原因の確定と対策を何年も遅らせた。

同上。写真は月の浦の集落。
同上。写真は月の浦の集落。Wikimedia Commons 熊本医学会 · Public domain

1959年12月、会社は患者の団体と「見舞金契約」を結んだ。死者に30万円、生きている大人に年10万円、子どもに年3万円という低い額だった。しかもその中に、将来水俣病が工場の排水のせいだと分かっても、新たな補償は求めないという条項があった。追い詰められた患者たちは、これを受け入れるしかなかった。

国が、チッソの排水が原因だと公式に認めたのは1968年9月26日である。公式確認から12年、原因物質の特定から9年がたっていた。そして、その年の5月にチッソはすでにアセトアルデヒドの製造をやめていた。技術が古くなって採算が合わなくなったからである。排出が止まった後になって、ようやく原因が認められたことになる。

1958年から1964年まで新日本窒素肥料(現:チッソ)社長を務めた吉岡喜一
1958年から1964年まで新日本窒素肥料(現:チッソ)社長を務めた吉岡喜一Wikimedia Commons 東洋経済新報社 · Public domain

その間に、同じ被害は別の場所で繰り返された。1965年、新潟県の阿賀野川の流域で、同じ症状の患者が見つかった。上流にあった昭和電工の工場も、同じくアセトアルデヒドを作っていた。水俣で原因が分かっていたのに、防げなかったのである。新潟の患者たちは1967年に提訴し、1971年に勝った。この判決は、各地の公害の裁判を後押しした(四日市ぜんそく、イタイイタイ病)。

水俣の患者たちも、1969年に会社を相手に裁判を起こした。1973年3月20日、熊本地方裁判所は患者側の全面勝訴の判決を出した。化学工場が排水を流すには、最高の知識と技術で安全を確かめる重い注意の義務がある、と判決は述べ、見舞金契約は公の秩序と善良な風俗に反して無効だとした。

水俣病資料館にある、水俣メモリアルの一部「祈りの噴水」
水俣病資料館にある、水俣メモリアルの一部「祈りの噴水」Wikimedia Commons Bobo12345 at English Wikipedia · Public domain

判決の後、患者たちは東京のチッソ本社に乗り込んで直接の交渉を続け、1973年7月、認定された患者への慰謝料や年金、医療費を定めた補償協定を結んだ。これに先立つ1971年から、川本輝夫らは本社の前に座り込み、社長に面と向かって補償を求めていた。裁判とは別に、被害者自身が加害者と向き合う道を切り開いたのである。

それでも、問題は終わらなかった。最も長く続いたのは、誰を患者と認めるかという問題である。1977年に国が示した判断の条件は、いくつもの症状がそろうことを求め、感覚の障害だけでは認められなかった。症状があっても認められない人が大勢出た。認められれば補償が払われ、その原資はチッソが負う。会社が倒れれば払えなくなるため、国と県は会社を金融面で支えながら認定を絞った、という構図が指摘されている。認定された患者は熊本・鹿児島・新潟を合わせて約3000人にとどまる。一方、1995年の政治的な決着と2009年の特別措置法による一時金などの救済を受けた人は数万人にのぼる。2004年には最高裁判所が、被害の拡大を防がなかった国と熊本県の責任を認めた。公式確認から48年後のことである。

メチル水銀イオンの分子模型
メチル水銀イオンの分子模型Wikimedia Commons Public domain

患者と家族は差別にも苦しんだ。「うつる」と言われ、仕事や結婚を断られた。魚が売れなくなった漁師たちが患者を恨むこともあった。会社で働く人々とその家族の中には、補償を求める患者を「金目当て」と責める者もいた。町は二つに割れた。

被害を外の世界に伝えたのは、言葉と写真だった。石牟礼道子は1969年、患者の語りを聞き書きの形でつづった『苦海浄土』を出した。録音をそのまま書き写したものではなく、彼女自身の言葉で患者の心をすくい取ろうとした作品で、その方法には議論もあるが、この本によって水俣は広く知られるようになった。アメリカの写真家ユージン・スミスは、妻のアイリーン・美緒子・スミスとともに1971年から3年ほど水俣に住み、患者たちを撮った。母の上村良子が、胎児性の水俣病の娘・智子を湯船で抱いている写真は、世界中で知られた。智子は1977年に21歳で亡くなり、のちに遺族の気持ちを尊重して、この写真の新たな公開は控えられるようになった。スミス自身も1972年、チッソの工場を訪れた際に従業員らから暴行を受け、重いけがを負った。

胎児性の水俣病は、医学の常識も覆した。当時、胎盤は有害な物質から胎児を守ると考えられていた。しかしメチル水銀は胎盤を通り、むしろ胎児の体に濃くたまった。母親にはほとんど症状がないのに、生まれた子に重い障害が現れた。

水俣湾では、水銀を含む海底の泥を浚って埋め立てる工事が行われ、湾を仕切っていた網は1997年に取り払われた。2013年10月、水銀の採掘から使用、排出、輸出入までを規制する国際条約が熊本で採択され、「水銀に関する水俣条約」と名づけられた。被害が起きた町の名を冠したのは日本政府の提案による。患者の中には、名前を付けるなら、水俣で起きたことを本当に二度と繰り返さないでほしい、と訴えた人もいた。

水俣病は終わっていない。いまも認定を求める人がおり、裁判が続いている。そして世界の各地では、金を取り出すために水銀を使う小規模な採掘によって、新たな水銀の汚染が広がっている。同じ時代、海の向こうではレイチェル・カーソンが、化学物質が生き物の体にたまっていく危うさを訴えていた(『沈黙の春』)。

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