ポルトガル領の独立
概要
アンゴラとモザンビークが独立した。他のアフリカ諸国より15年遅い。本国の政変(カーネーション革命)が先に必要だった。独立の直後から、冷戦の代理戦争としての内戦が始まる。
場所
-8.84°N 13.29°E · アンゴラ
関わった人(1)
アミルカル・カブラルAD1924年9月12日–AD1973年1月20日 · ギニアビサウとカーボヴェルデの指導者。1973年1月に暗殺された本文
1960年は「アフリカの年」と呼ばれる(アフリカの年)。この年だけで17の国が独立し、イギリスとフランスはその後も次々に植民地を手放した。だが、アフリカに最も早く来たヨーロッパの国、ポルトガルは違った。15世紀からアフリカの沿岸に拠点を置き(コンゴ王国とポルトガルの接触)、アンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウなどを抱えていたポルトガルは、手放すことを拒んだ。
当時のポルトガルは、サラザールの独裁の下にあった。1951年、政府は植民地を「海外州」と呼び替え、これらは植民地ではなく、本国と一体のポルトガルの一部だ、という建前をとった。植民地を独立させる理由は無い、というわけである。アンゴラからはコーヒーやダイヤモンド、のちには石油が取れ、白人の入植者も増えていた。

1961年、アンゴラで武装した蜂起が始まった。ギニアビサウでは1963年、モザンビークでは1964年に独立の戦争が始まった。独立を目指す勢力は、アンゴラでは三つに分かれていた。社会主義を掲げるMPLA、北部の民族を基盤とするFNLA、南部の民族を基盤とするUNITAである。モザンビークではFRELIMOが戦いを率いた。ギニアビサウとカーボヴェルデの独立運動を率いたのがアミルカル・カブラルで、農学者でもあった彼は、植民地支配を文化の面からも論じた思想家として知られる。カブラルは1973年1月に暗殺されたが、その年の9月、ギニアビサウは独立を宣言した。
戦争は10年以上続いた。ポルトガルは、ヨーロッパで最も貧しい国の一つでありながら、国の予算の大きな部分を三つの戦争に注ぎ込み、若者を兵として送り続けた。兵役を逃れるため国を出る若者も多かった。前線の将校たちのあいだには、勝つ見込みの無い戦争への疲れと不満が広がっていった。

1974年4月25日の未明、リスボンのラジオから一曲の歌が流れた。それを合図に、若い将校たちの「国軍運動」が動き出し、ほとんど血を流さずに政府を倒した。市民は通りに出て兵士を迎え、銃口にカーネーションの花を差した。カーネーション革命と呼ばれる。40年あまり続いた独裁は終わった。植民地の戦争が、本国の体制を倒したのである。
新しい政府は、植民地を手放すことを決めた。ギニアビサウの独立を1974年に認め、モザンビークは1975年6月25日に独立した。初代大統領はFRELIMOの指導者サモラ・マシェルだった。アンゴラでは、三つの勢力が一緒に政府を作る取り決めが1975年1月に結ばれたが、すぐに崩れ、首都ルアンダの争奪戦になった。

1975年11月11日、ポルトガルの最後の高等弁務官がアンゴラを去った日に、ルアンダを押さえたMPLAが独立を宣言した。だが、すでに戦争は国際的なものになっていた。MPLAをソ連とフィデル・カストロのキューバが支え、キューバは数万の兵を送った。FNLAとUNITAには、アメリカと隣のザイール、そして白人政権の南アフリカが手を貸し、南アフリカ軍はアンゴラの南から攻め込んだ。アフリカの国の独立の日が、そのまま冷戦の代理戦争の始まりになった。
植民地にいた白人のポルトガル人の多くは、独立の前後に本国へ逃れた。その数は数十万にのぼり、「帰還者」と呼ばれて、ポルトガルの社会に重くのしかかった。

アンゴラの内戦は、冷戦が終わっても続いた。石油とダイヤモンドが、それぞれの側の戦費になった。2002年にUNITAの指導者サヴィンビが戦死して、ようやく終わった。独立から27年である。モザンビークでも、独立後まもなく、隣の白人国家ローデシア(ローデシアの一方的独立宣言)、のちには南アフリカに支えられた反政府勢力RENAMOとの内戦が始まり、1992年の和平まで続いた。死者は100万人に近いとも言われる。
アンゴラの戦争は、南アフリカの支配下にあったナミビアの独立と結びつき、1990年のナミビア独立、さらに南アフリカのアパルトヘイトの終わりへとつながっていった(アパルトヘイトの終結)。ポルトガルの帝国が終わったことは、アフリカ南部の白人支配全体を揺るがした。独立の日から平和が来るまでの道のりは、どの国でも長かった。