できごと

チャーティスト運動

Chartist movement
AD1838年5月8日
重要度 4
チャーティスト運動に関わる図版:Chartist meeting on Kennington Common by William Edward Kilburn 1848 - restoration1
Chartist meeting on Kennington Common by William Edward Kilburn 1848 - restoration1 Wikimedia Commons William Edward Kilburn (1818 - 1891) Details on Google Art Project · Public domain

概要

1832年の選挙法改正で選挙権を得たのは中産階級だけだった。労働者は「人民憲章」6か条を掲げた。男子普通選挙、秘密投票、議員の財産資格の廃止、議員の歳費、平等な選挙区、毎年の選挙。署名128万、330万、570万(1848年、偽名が多かった)。議会は3回とも拒んだ。運動は消えた。6か条のうち5つは、1918年までに実現した。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

1832年、イギリスで選挙法が改正された。腐敗選挙区がなくなり、新しい工業都市が議員を送れるようになった。だが選挙権を得たのは、年10ポンド以上の家賃の家に住む中産階級までで、イングランドとウェールズでも成人男性のおよそ5人に1人にとどまった。改正を求めて一緒に声を上げた工場の労働者たちは、置き去りにされた。

2年後、新しい救貧法がそれに追い打ちをかけた。貧しい人への救済は、原則として救貧院に入ることを条件とされ、救貧院では夫婦も親子も分けられ、わざと厳しい暮らしを強いられた。貧しい人びとは救貧院を「バスティーユ」と呼んで憎んだ。工場では長時間の労働が続き、1833年工場法の規制も子どもの労働を一部減らしたにすぎなかった。

1833年工場法に関わる図版:Baines 1835-Mule spinning
1833年工場法Wikimedia Commons Baines · Public domain

1836年、ロンドンの家具職人ウィリアム・ラヴェットらは、ロンドン労働者協会を作った。1838年5月8日、彼らは議会に求める六つの要求を「人民憲章」として発表した。21歳以上のすべての男子の選挙権。秘密投票。議員になるための財産の資格の廃止。貧しい人も議員になれるように、議員に歳費を払うこと。人口の等しい選挙区。毎年の議会選挙。この憲章を掲げた運動は「チャーティスト運動」と呼ばれた。

運動はたちまち全国に広がり、とくに北部の工業地帯で大きな集会が開かれた。だが運動の中には、二つの路線があった。ラヴェットらは、請願と教育で世論を動かす「道徳の力」を説いた。一方、アイルランド出身の雄弁家ファーガス・オコナーは、北部で出した新聞『ノーザン・スター』で、大衆の集会の力で議会を脅すことも辞さない「物理的な力」を唱えた。

チャーティスト暴動
チャーティスト暴動Wikimedia Commons Alfred Pearse (1855–1933) · Public domain

1839年、128万人の署名を集めた請願は、議会で235対46の大差で退けられた。その年の11月、ウェールズのニューポートで、武器を持った数千人のチャーティストが町に押し寄せ、兵士の立てこもるホテルを襲った。兵の銃撃で20人を超える人が死に、指導者たちは死刑を宣告されたのち、オーストラリアへの流刑に減刑された。1842年には、人口のおよそ6分の1にあたる330万人の署名が集まったが、これも退けられた。同じ年の夏、北部では賃下げに抗議するストライキが広がり、工場のボイラーの栓を抜いて機械を止める騒ぎが続いた。

最後の山場は、ヨーロッパ各地で革命が起きた1848年に来た(1848年革命)。4月10日、ロンドン南部のケニントン・コモンに大集会が呼びかけられた。政府は革命を恐れ、老ウェリントン公に首都の守りを任せ、数万の市民を特別巡査に任じて街を固めた。その中には、のちのフランス皇帝ルイ・ナポレオンもいたと伝えられる。オコナーは50万人が集まると言ったが、実際は数万人とみられ、集会は大きな衝突もなく解散した。請願の署名は570万と称したが、議会が調べると200万足らずで、しかも「ヴィクトリア女王」「ウェリントン公」や、明らかなでたらめの名が多く混じっていた。運動は笑いものにされ、急速に勢いを失った。

1848年革命に関わる図版:Horace Vernet-Barricade rue Soufflot
1848年革命Wikimedia Commons Horace Vernet · Public domain

チャーティスト運動が退潮した理由はいくつもある。指導者の対立、1840年代後半からの景気の回復、そして穀物法の廃止のように、議会が中産階級の要求には応えて改革を進めたこと。だが、運動が掲げた要求は消えなかった。議員の財産の資格は1858年に廃止され、秘密投票は1872年に実現した。選挙権も1867年と1884年の改正で労働者に広がり、1885年には選挙区の人口がほぼそろえられた。議員の歳費は1911年に始まり、1918年には21歳以上のすべての男子に選挙権が与えられた。同じ年、30歳以上の女性も選挙権を得た(イギリスの女性参政権運動)。六つの要求のうち、毎年の選挙だけはいまも実現していない。

チャーティスト運動は、労働者が自分たちの手で全国的な組織を作り、新聞を出し、署名を集めて政治に参加を求めた、世界でも早い例だった。運動に加わった人びとの多くは、生きているうちに要求の実現を見ることはなかった。同じころマンチェスターで工場の労働者を観察していたエンゲルスは、のちにマルクスと『共産党宣言』を書くことになる。負けた運動の要求が、70年かけて法律になったのである。

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