できごと

イギリスの女性参政権運動

Suffragette movement
1903年 – 1918年
期間を持つできごと重要度 4
イギリスの女性参政権運動に関わる図版:Annie Kenney and Christabel Pankhurst (cropped)
Annie Kenney and Christabel Pankhurst (cropped) Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

概要

請願では動かないと見て実力行使に踏み切った。投獄と強制摂食が続き、方法をめぐって運動自体が割れる。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

エメリン・パンクハーストAD1858年7月15日–AD1928年6月14日 · 率いた

本文

イギリスで女性の参政権が議会で初めて論じられたのは、1867年のことである。哲学者のジョン・スチュアート・ミルが、選挙法の改正案の「男性」を「人」に改めるよう提案し、否決された。以後、女性たちは集会を開き、署名を集め、議員に手紙を書き続けた。各地の団体は1897年に全国女性参政権協会連合にまとまり、ミリセント・フォーセットが率いた。だが半世紀近い請願で、法案は何度も議会に出されては潰された。

1903年10月、マンチェスターでエメリン・パンクハーストが、娘のクリスタベルらと女性社会政治同盟を作った。パンクハーストは弁護士だった亡き夫とともに長く労働運動や参政権運動に関わってきた人で、礼儀正しい請願ではいつまでも無視されると考えていた。掲げた言葉は「言葉ではなく行動を」。1905年、クリスタベルと紡績工場出身のアニー・ケニーは、自由党の集会で「女性に選挙権を与えるか」と書いた旗を掲げて質問を叫び、引きずり出されて逮捕された。罰金を拒んで投獄されると、新聞が大きく報じた。翌年、ある新聞が彼女たちを揶揄して「サフラジェット」と呼んだ。彼女たちはその呼び名を、自ら誇りをもって名乗るようになった。

アニー・ケネディとクリスタベル・パンクハーストは女性社会政治連合(Women's Social and Political Union、 WSPU)メンバーとして暴力的な戦略にも訴えた。
アニー・ケネディとクリスタベル・パンクハーストは女性社会政治連合(Women's Social and Political Union、 WSPU)メンバーとして暴力的な戦略にも訴えた。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

運動はしだいに過激になった。1908年にはロンドンのハイドパークで数十万人の集会を開いたが、政府は動かなかった。女性たちは首相官邸の窓に石を投げ、議会の柵や官邸の手すりに自分の体を鎖でつないだ。1912年にはロンドンの繁華街で一斉に店の窓ガラスを叩き割り、1913年からは郵便ポストに火を付け、空き家や教会、競技場の建物に放火し、爆弾も仕掛けた。人の命を狙わないことは原則とされた。1914年には、ナショナル・ギャラリーでベラスケスの裸婦像が刃物で切りつけられている。

投獄された女性たちは、政治犯として扱うよう求めてハンガーストライキをした。1909年に始まったこの抵抗に、政府は強制摂食で応えた。医師と看守が女性を押さえつけ、鼻や口から管を入れて流動食を流し込む。激しい苦痛を伴い、体を壊す者も出た。貴族の娘コンスタンス・リットンは、自分が身元を明かしたときには丁重に扱われたことから、労働者の女性に変装して再び捕まり、強制摂食を受けて、扱いの差を告発した。1913年には、衰弱した者をいったん釈放し、回復したら再び収監する法律が作られた。猫が鼠をもてあそぶようだとして「猫と鼠法」と呼ばれた。

エミリー・デイヴィソンに捧げられた新聞『サフラジェット』(The Suffragette)記念号。
エミリー・デイヴィソンに捧げられた新聞『サフラジェット』(The Suffragette)記念号。Wikimedia Commons The original uploader was Lordprice at English Wikipedia . · Public domain

1913年6月、ダービーの競馬で、運動の活動家エミリー・ワイルディング・デイヴィソンがレースの最中のコースに入り、国王の馬に倒されて4日後に死んだ。旗を馬に付けようとしたのか、命を捨てる覚悟だったのかは、いまもはっきりしない。葬列には数千人の女性が加わった。

方法をめぐって、運動は割れた。全国連合のフォーセットたちは非暴力の請願と宣伝を続け、暴力は世論を敵に回し、反対派に口実を与えると批判した。同盟の内部でも、パンクハースト母娘の独断的な指導に反発して離れる者が相次ぎ、娘のシルヴィアも、労働者の運動との連帯を重んじて母や姉と袂を分かった。過激な行動が参政権の実現を早めたのか、むしろ遅らせたのかは、歴史家の間でも評価が分かれている。

イギリスで最も著名なサフラジェット、エメリン・パンクハースト。
イギリスで最も著名なサフラジェット、エメリン・パンクハースト。Wikimedia Commons Copyright by Matzene, Chicago. · Public domain

1914年8月、第一次世界大戦が始まると、パンクハーストは闘争をやめ、政府の戦争協力に回った。政府は投獄していた活動家を釈放した。男性が戦場に出たあと、女性は軍需工場や交通、事務の仕事を担った。戦争が終わりに近づいた1918年2月、選挙法が改正され、30歳以上で一定の財産の条件を満たす女性に選挙権が認められた。同時に、21歳以上のすべての男性に選挙権が与えられた。女性の年齢が男性と同じ21歳に引き下げられたのは、1928年のことである。パンクハーストは、その法律が成立する数週間前に死んだ。

世界で初めて全国の選挙で女性が投票したのはニュージーランドで、1893年のことだった(ニュージーランドの女性参政権)。アメリカでは1848年のセネカ・フォールズ会議から70年あまりかけて、1920年に女性の参政権が認められる。サフラジェットたちの紫・白・緑の色や、口紅を塗って行進したという話(参政権の口紅)は、のちの女性運動にも受け継がれた。

同じ時代のできごと

オリエント急行AD1883年10月4日鹿鳴館AD1883年11月28日ビスマルクの社会保険AD1883年6月15日ケルクホフスの原理AD1883年ブルックリン橋AD1883年ベルティヨンの人体測定法AD1883年カーネギー図書館AD1883年ジャディード運動1883年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1903年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →