マジマジ蜂起
概要
ドイツ領東アフリカで、綿花の強制栽培に対して蜂起した。「マジ」は水を意味する。聖水を浴びれば弾が水に変わると信じられた。25万から30万が死んだとされる。
場所
-10.68°N 35.65°E · タンザニア
本文
1880年代、ヨーロッパの列強はアフリカを分け合った(アフリカ分割)。ドイツはインド洋に面した東アフリカの広い土地を手に入れ、ドイツ領東アフリカとした。いまのタンザニア本土、ルワンダ、ブルンジにあたる。沿岸のアラブ系やスワヒリ系の人びとの抵抗、内陸のヘヘ人の長い戦いを武力で抑え込み、ドイツは1890年代の終わりまでに支配を固めていった。
植民地の経営には金がかかる。ドイツ本国は植民地が自分で稼ぐことを求めた。そのために導入されたのが、人頭税と、輸出向けの作物、とくに綿花の栽培だった。1902年から、総督府は南部の村々に共同の綿花畑を作らせ、村人を順番に働かせた。監督にあたったのは、ドイツ人が任命したアキダやジュンベと呼ばれる地元の役人で、鞭で村人を追い立てた。働いても受け取る金はわずかで、ときにはまったく払われなかった。何より、自分たちの食べる作物を育てる時間と人手が奪われた。土地に合わない綿花は収穫も少なく、苦しみだけが積み重なっていった。

そのころ、南東部のンガランベという土地に、キンジキティレ・ングワレという霊媒が現れた。彼は蛇の姿をした霊に取りつかれ、その言葉を伝えると称した。彼が人びとに配ったのが、水に穀物とヒマの油を混ぜた「マジ」である。マジはスワヒリ語で水を意味する。このマジを身につけた者には、ドイツ人の弾が当たっても水に変わり、傷つかない。そう説かれた。祖先の霊が人びとを助け、白人を追い出す日が来る、という教えは、マジを飲むための巡礼とともに、南部の村々へ静かに広がっていった。
1905年7月、マトゥンビの丘陵で、人びとは綿花の木を引き抜き、蜂起の口火を切った。蜂起は燃え広がり、言葉も暮らしも異なる20を超える民族の集団が、数か月のうちに加わった。かつて互いに争っていた集団どうしが、マジという共通の信仰で結ばれたのである。蜂起した人びとは、ドイツの役所や商館、宣教所を襲い、アキダやドイツ人の入植者を殺した。キンジキティレ自身は早くに捕らえられ、8月には絞首刑にされたが、蜂起は止まらなかった。
しかし、弾は水にはならなかった。1905年8月末、数千人の戦士が南部の拠点マヘンゲの砦に攻めかかったが、機関銃の前に何百人もが倒れた。それでも人びとは戦い続けた。マジが効かなかったのは、使う人の掟の破り方のせいだ、と説明されることもあったという。
ドイツ軍は、兵の数で劣ることを、別の手段で補った。蜂起した地域の畑を焼き、穀物の蔵を壊し、村を焼き払った。食べ物を奪えば、戦士もその家族も生きていけない。意図的に飢えを作り出す作戦だった。戦いは1907年まで続き、最後まで抵抗した指導者たちは捕らえられ、処刑された。

死者の数ははっきりしない。ドイツ側の当時の推計でも7万5000人、のちの研究では25万から30万人とされ、その大半は戦闘ではなく、その後の飢えによるものだった。一帯の人口が元に戻るまでには数十年かかり、人の去った畑の多くは藪と森に返った。
同じころ、ドイツ領南西アフリカ(いまのナミビア)では、ヘレロとナマの人びとの蜂起が、さらに苛烈なやり方で鎮圧されていた(ヘレロ・ナマ虐殺)。二つの植民地戦争の惨状はドイツ本国でも問題になり、植民地の統治のやり方を改める動きが起きた。強制的な綿花栽培は見直され、より穏やかな経営が図られるようになった。

マジマジの蜂起は、のちのタンザニアの独立運動の中で、民族の違いを越えて人びとが一つになった最初の闘いとして語り直された。独立の指導者ジュリウス・ニエレレは、国際連合での演説でこの蜂起に触れ、タンザニアの人びとの抵抗の歴史の始まりとして位置づけている。マジは弾を止められなかったが、言葉も暮らしも違う人びとを一つに結ぶ力は持っていた。