アルギヌサイの海戦
概要
アテナイが奴隷まで乗せた150隻で勝った。嵐で25隻の乗員を救えなかった。民会は6人の将軍をまとめて死刑にした。その日の議長がソクラテスで、一人だけ違法だと反対した。翌年、艦隊は指揮官を失ったまま、アイゴスポタモイへ。
場所
39.05°N 26.75°E · エーゲ海
関わった人(1)
ソクラテスBC470年頃–BC399年 · 反対した本文
BC406年、ペロポネソス戦争は27年目の終盤にあった。シケリア遠征で艦隊と兵の多くを失ったアテナイは、それでも海の上で持ちこたえていた。一方のスパルタは、ペルシアの資金で艦隊を養うようになっていた。この年のスパルタの提督カリクラティダスは、ペルシアの王子に金を頼むことを恥と考え、ギリシア人どうしが争って異民族に頭を下げている、と嘆いた人物として伝えられる。
カリクラティダスはレスボス島の沖でアテナイの将軍コノンの艦隊を破り、ミュティレネの港に閉じ込めた。知らせを受けたアテナイは、残る力をすべて注ぎ込む。ふだんは船に乗らない騎士身分の者まで漕ぎ手になり、奴隷にも、乗り組めば自由と市民の権利を与えると約束して乗せた。神殿の奉納物の金まで貨幣に鋳直したと伝えられる。30日ほどで100隻を超える船が整い、同盟国の船を合わせて150隻ほどになった。
艦隊はレスボス島の東、小アジアの岸近くに並ぶアルギヌサイの小島のあたりに陣を敷いた。指揮には8人の将軍がついた。カリクラティダスは120隻ほどを率いて迎え撃った。部下が数の不利を説いて退くよう勧めたが、彼は逃げるのは恥だと退けたという。戦いは激しく、カリクラティダスは船がぶつかった衝撃で海に落ち、そのまま姿を消した。スパルタ側は70隻あまりを失って敗走し、アテナイ側の損失は25隻だった。戦争の中でも最大級の海戦で、アテナイの勝ちだった。
問題は戦いのあとに起きた。沈んだり壊れたりした25隻の乗員の中には、まだ生きて残骸にしがみついている者がいた。将軍たちは、艦長として乗り組んでいたテラメネスとトラシュブロスに40隻あまりを預けて救助を命じ、自分たちはミュティレネの敵へ向かおうとした。そこへ嵐が来た。救助の船は出られず、漂う者たちは見捨てられた。多くの遺体も収容できなかった。ギリシア人にとって、死者を葬らないことは重い罪だった。

アテナイに勝利の知らせとともにこの話が伝わると、民衆の怒りは将軍たちに向かった。8人のうち2人は帰国せず、6人が戻って裁かれた。テラメネスは、救助しなかった責任を問われかけると、逆に将軍たちを告発する側に回った。将軍たちは、救助は命じた、嵐でできなかった、と答え、それを証言する者もいた。議論の途中で日が暮れ、採決は次の民会に持ち越された。
その間にアパトゥリア祭があった。一族が集まる祭りで、喪服を着て頭を剃った人々が、死者の身内として民会に現れたと伝えられる。カリクセノスという者が、6人を一人ずつではなく、まとめて一度の投票で裁くことを提案した。これは被告一人ずつに弁明の機会を与える法に反していた。エウリュプトレモスは法に従って一人ずつ裁くべきだと訴えたが、民衆は、民衆が望むことを止めるのはおかしいと叫んだ。

その日、民会を取り仕切る当番の評議員の中に、ソクラテスがいた。当番の者たちは、違法な提案を採決にかけることを渋ったが、脅されて次々に折れ、最後まで拒んだのはソクラテス一人だった。プラトンの『ソクラテスの弁明』では、ソクラテス自身がこの日のことを語り、牢獄や死を恐れて不正な決定に加わるよりは、法と正義の側に立って危険を冒すほうを選んだ、と述べている。クセノフォンは、彼がこの日の議長役だったと書くが、プラトンの書き方はそこまで言っておらず、どの立場だったかは決めきれない。
提案は通り、6人の将軍は死刑になった。その中には、ペリクレスがアスパシアとの間にもうけた同名の息子もいた。まもなくアテナイ人は悔やみ、民衆を欺いたとしてカリクセノスらを訴えた。カリクセノスは逃げ、のちに戻ったが、誰からも憎まれて飢えて死んだ、とクセノフォンは伝える。
この勝利のあと、スパルタが和平を申し出たが、アテナイは退けたとする記録もある。実戦の経験を積んだ将軍たちを一度に失ったアテナイ海軍は、翌BC405年、ヘレスポントスのアイゴスポタモイの海戦でリュサンドロスに奇襲され、ほぼすべての船を失う。生き延びたのはコノンの数隻だけだった。翌年アテナイは降伏した。
勝った将軍を自らの手で処刑し、次の年に艦隊を失ったこの出来事は、民衆の熱狂が法を押し流した例として、古代から語られてきた。民主政に批判的だったプラトンの考えにも、師が見たこの日の光景は影を落としているとされる。一方で、戦いで漕ぎ手を務めた奴隷たちは、約束どおり自由と市民権を与えられたとされ、喜劇作家アリストファネスは翌年の作品でこれに触れている。アルギヌサイの島々は、いまはトルコの海岸の沖に浮かぶ小さな無人の島である。