サンフランシスコ講和条約

概要
48か国と結んで日本が主権を回復した。ソ連と中国は加わらず、沖縄と小笠原はアメリカの施政下に残る。同じ日に日米安全保障条約が結ばれた。
場所
37.77°N -122.42°E · アメリカ合衆国・カリフォルニア州
関わった人(1)
吉田茂AD1878年9月22日–AD1967年10月20日 · 首席全権本文
1945年8月に降伏した日本は、連合国軍の占領下に置かれた。最高司令官マッカーサーのもとで、憲法が作り替えられ、財閥が解体され、農地が小作人に分けられた。戦争は終わっていたが、法のうえでは、日本と連合国の戦争状態はまだ続いていた。それを終わらせ、日本を独立した国に戻すのが講和条約である。
占領の初め、アメリカは日本を二度と戦争のできない国にすることを第一に考えていた。賠償を厳しく取り立て、工業の力を抑える案も出ていた。風向きを変えたのは冷戦だった。1949年に中国で共産党が勝ち、1950年6月に朝鮮戦争が始まる。日本は、アジアで共産主義に対する西側の拠点として、早く立ち直らせるべき国になった。講和の交渉を担ったアメリカの特使ダレスは、懲罰ではなく和解の講和を掲げた。

国内では、講和の形をめぐって激しい論争が起きた。ソ連や中国も含めたすべての交戦国と結ぶ「全面講和」を求める声が、学者や野党、労働組合から上がった。首相の吉田茂は、それを待てば独立がいつになるか分からないとして、西側の国々とだけでも結ぶ道を選んだ。全面講和を唱えた東京大学の総長南原繁を、吉田は「曲学阿世の徒」と呼んで退けている。
1951年9月4日、サンフランシスコのオペラハウスで講和会議が開かれた。50を超える国が出席したが、会議は初めから全面ではなかった。中国については、アメリカが台湾の中華民国を、イギリスが中華人民共和国を承認していたため折り合いがつかず、どちらも招かれなかった。インド、ビルマ、ユーゴスラビアは出席を拒んだ。ソ連はポーランド、チェコスロバキアとともに出席して条約案の修正を求めたが、受け入れられず、署名しなかった。日本の植民地だった朝鮮半島の国々も、交戦国として認められず、招かれなかった。

会議では、セイロン(いまのスリランカ)の代表ジャヤワルダナが演説し、日本への賠償請求を放棄すると述べた。憎しみは憎しみによってではなく、慈しみによってやむ、という仏陀の言葉を引いている。その演説は、のちまで日本で語り継がれた。
9月8日、日本と48か国が条約に署名した。条件は、占領初期に考えられていたより、ずっと緩やかだった。賠償の義務は認めたが、日本の経済が立ち行かなくならない範囲に限るとされ、多くの国は請求を放棄した。日本に占領された東南アジアの国々に対しては、お金ではなく、日本人の技術や労働、製品を提供する「役務」によって払うことになり、のちにフィリピン、インドネシア、ビルマなどと個別に協定を結んでいく。日本は東京裁判の判決を受け入れることも約束した。

領土の条項では、朝鮮の独立を認め、台湾と澎湖諸島、千島列島と南樺太などを放棄すると書かれた。ただ、それらが誰のものになるのかは書かれていない。千島列島の範囲も定められなかった。北方領土、竹島、台湾の帰属をめぐって、いまも残る問題の根がここにある。
沖縄、奄美、小笠原は、日本の主権は残しつつ、アメリカが施政権を持つことになった(沖縄(アメリカ施政下))。奄美は1953年、小笠原は1968年、沖縄は1972年まで、日本に戻らなかった(沖縄返還)。

同じ日の夕方、市内の陸軍基地の一角で、日米安全保障条約が結ばれた。占領が終わったあとも、アメリカ軍が日本に駐留し続けるための条約だった。講和条約には6人の日本の全権が署名したが、安保条約に署名したのは吉田茂ひとりだった。同行した全権たちを署名に加えなかったのは、国内で批判を受けるであろうこの条約の責任を、自分一人で負うためだったとされる。
条約は1952年4月28日に発効し、日本は主権を回復した。同じ日、台湾の中華民国とは別に平和条約を結んだ。インドとも、その年のうちに条約を結んでいる。しかし、署名しなかったソ連とは、1956年の共同宣言(日ソ共同宣言)で国交を回復したものの、平和条約はいまも結ばれていない。中華人民共和国とは1972年(日中国交正常化)、韓国とは1965年(日韓基本条約)まで、国交が無かった。

軽い軍備で、安全保障はアメリカに頼り、経済の再建に力を注ぐ。吉田が選んだこの道は、のちに「吉田路線」と呼ばれ、戦後日本の骨格になった。一方で、安保条約をめぐる対立は、1960年の改定のときに国を二分する争い(安保闘争)を引き起こす。独立と同盟と基地を一つの日に抱え込んだこの講和の形が、そのまま戦後の日本の論争の形になっていった。