十四か条の平和原則

概要
ウィルソンが議会で読んだ。秘密外交の廃止、海洋の自由、軍備縮小、民族自決、国際連盟。ドイツはこれを信じて休戦を求め、ヴェルサイユで違うものを受け取った。アメリカ議会は連盟を拒んだ。理想は、言った国が最初に捨てた。
場所
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国
関わった人(1)
ウッドロウ・ウィルソンAD1856年12月28日–AD1924年2月3日 · 大統領本文
1918年1月8日、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンは、上下両院の合同会議で「世界の平和のための計画」を読み上げた。第一次世界大戦は4年目に入り、アメリカが参戦してから9か月がたっていた。ウィルソンが挙げた原則は14あった。
一は、講和を公開で結び、秘密の外交をやめること。二は、海の航行の自由。三は、通商の障壁を取り除くこと。四は、軍備の縮小。五は、植民地をめぐる要求を、住民の利益も同じ重さで考えて公平に調整すること。六から十三までは個々の土地の話で、ロシアからの撤退、ベルギーの回復、アルザス・ロレーヌのフランスへの返還、イタリアの国境を民族の線で引き直すこと、オーストリア・ハンガリーの諸民族に自治の機会を与えること、バルカンの国々の回復、オスマン帝国のトルコ人以外の民族に自治を与えダーダネルス海峡を開くこと、海への出口を持つポーランドの独立。そして十四が、大国も小国も同じように独立と領土を保障しあう諸国の連合、のちの国際連盟である。

演説の下には、ウィルソンの側近ハウス大佐が集めた「インクワイアリー」と呼ばれる150人ほどの学者たちの作業があった。地図と統計を使って、戦後の国境を民族の分布から考えていた。よく結びつけられる「民族自決」という言葉は、この演説の中には無く、翌月2月11日の演説で使われる。
演説はまた、レーニンへの返答でもあった。前年11月のロシア革命で権力を握ったボリシェヴィキは、併合も賠償もない講和を呼びかけ、旧政府の秘密条約を公開した。連合国が戦争の後で領土を分け合う約束をしていたこと(サイクス・ピコ協定など)が、世界に知られた。ウィルソンは、公開の外交と諸民族の権利という、もう一つの旗を掲げて応えた。ロシアはこの3月、ブレスト・リトフスク条約を結んで戦争から抜ける。

1918年の秋、ドイツの軍は崩れ始めた。9月末、参謀次長ルーデンドルフは休戦を求めるよう政府に迫り、新しい首相マクシミリアン公は10月はじめ、十四か条を基礎とする休戦をウィルソンに直接申し入れた。ウィルソンは、まず国の体制を改めることを求めた。11月、キール軍港の水兵の反乱から革命が広がり、皇帝は退位して亡命した。11月11日、休戦が結ばれた。イギリスは海の自由に留保をつけ、賠償も求めると付け加えていた。
1919年、パリの講和会議で、十四か条はフランスのクレマンソーやイギリスのロイド・ジョージとの駆け引きにさらされた。神は十戒で足りたのにウィルソンは十四か条だ、とクレマンソーが皮肉ったと伝えられる。ヴェルサイユ条約はドイツに戦争の責任を負わせ、多額の賠償を課し、植民地を取り上げて戦勝国の委任統治に回した。ドイツ人の多くは、十四か条を信じて武器を置いたのに欺かれたと感じた。その怒りは、軍は負けていなかったのに国内の裏切りで負けたという神話と結びつき、のちのナチスの宣伝に使われる。

東ヨーロッパでは、ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、バルト三国などが生まれた。だが民族は入り組んで住んでいて、線をどう引いても少数民族が残った。チェコスロヴァキアのドイツ人は、20年後、ヒトラーがその土地を奪う口実になった。
ヨーロッパの外でも、演説は熱心に読まれた。朝鮮では1919年3月1日に独立を宣言する運動が起き(三・一独立運動)、中国では山東の権益が日本へ渡ると知った学生たちが5月4日に立ち上がった(五四運動)。エジプトでは代表団のパリ行きを阻まれて革命が起き、パリにいた若いベトナム人、のちのホー・チ・ミンは、ベトナム人の権利を求める請願を会議に届けた。どれも聞き入れられなかった。民族の自決は、敗れた帝国の中のヨーロッパの民族のためのものだった。それでも、その言葉は世界中で読まれ、植民地の独立を求める人々の手に渡った。

国際連盟は1920年に発足した(国際連盟の発足)。だがアメリカの上院は、共和党のロッジらが主権の制約を嫌い、1919年11月と1920年3月の二度、条約の批准を否決した。全国を回って説得していたウィルソンは、その途中で倒れていた。アメリカは連盟に入らなかった。理想は、言い出した国が最初に手放した。それでも、諸国の集まりで平和を守るという考えは消えず、第二次世界大戦の後、国際連合の成立として、もう一度試されることになる。