東学農民戦争

概要
崔済愚が創めた東学(「西学=キリスト教」に対する)は、「人が即ち天」と説いて農民に広がった。1894年、全羅道の郡守の収奪に、全琫準が立った。全州を占領し、政府と和約して、村ごとに執綱所を置いて自治を行った。政府が清に援兵を求め、日本も出兵して、日清戦争になった。再蜂起した農民軍は、日本軍の連発銃の前に、公州の牛禁峙で数万が死んだ。
場所
35.82°N 127.15°E · 韓国・全羅北道
関わった人(1)
全琫準AD1855年–AD1895年4月24日 · 率いた本文
19世紀の朝鮮の農村は疲れ切っていた。王の外戚の一族が政治を握る勢道政治のもとで官職は売り買いされ、金で地位を得た地方官は、田税・軍役の代わりの布・穀物の貸し付けという三つの制度を食い物にして農民から搾り取った。各地で民乱が繰り返され、そこへ西洋の船と天主教(カトリック)が入ってくる。1860年、慶州の没落した両班の家に生まれた崔済愚は、長い放浪と修行の末に、天主(ハヌルニム)の啓示を受けたとして新しい教えを説き始めた。西洋の学問・宗教である「西学」に対して、これを「東学」と呼んだ。
東学は、儒教・仏教・道教と朝鮮の民間信仰を混ぜ合わせ、心に天主を宿す「侍天主」を説いた。呪文を唱え、霊符を焼いて飲めば病が治り、身が守られるとも言った。教えはたちまち貧しい農民の間に広がり、政府は警戒した。1864年、崔済愚は世を惑わし民を欺いた罪で処刑される。第2代の教主となった崔時亨は山中を転々としながら組織を地下で広げ、教えを経典にまとめた。のちに「人乃天」(人すなわち天)と言い表される思想は、身分や男女、大人と子どもの差を超えて、すべての人を天として敬えというものだった。

1892年から翌年にかけて、東学の信徒たちは、処刑された教祖の罪を解くよう求める集会を各地で開いた。1893年春、忠清道の報恩に集まった人々は数万に達し、「斥倭洋倡義」(日本と西洋を退け、義を唱える)の旗が掲げられた。宗教の運動が、外国と腐敗した政治に向けた運動に変わりつつあった。
1894年の陰暦1月、全羅道の古阜で火の手が上がった。郡守の趙秉甲は、すでにある堰の下に新しい堰(万石洑)を農民にただ働きで作らせ、その水を使う田に水税を課した。ほかにも罪をでっち上げて罰金を取るなど、収奪は露骨だった。この地の東学の指導者で、村の子どもに漢文を教えていた全琫準は、父をかつて郡守の暴政で失っていた。彼は農民を率いて郡の役所を襲い、倉を開いて穀物を配り、新しい堰を壊した。

政府が送った調査官は、事件の責任を東学に負わせ、信徒を捕らえて罰した。これが火に油を注いだ。春、全琫準は茂長で檄文を発し、白山に数千の農民を集めて本格的に挙兵した。旗には「輔国安民」(国を助け民を安んじる)、「除暴救民」(暴虐を除き民を救う)と書かれた。檄文は、自分たちが立ち上がったのは民を塗炭の苦しみから救い、国家を盤石の上に置くためであって、ほかの意図は断じてない、と訴えた。農民軍は黄土峴で地方の兵を破り、続いて都から来た官軍も退け、5月31日、全羅道の首府である全州に入城した。
全州の陥落に慌てた政府は、清に援兵を求めた。6月8日から清軍が牙山に上陸すると、日本も1885年の天津条約で互いに出兵を通告し合うと定めていたことを根拠に、仁川に大軍を送り込んだ。外国の軍隊が国土に入ったことを知った農民軍は、6月11日、政府と和約を結んで全州から引き上げた(全州和約)。政府は腐敗した役人の処罰などの改革を約束した。

それから数か月、全羅道の各郡では「執綱所」と呼ばれる農民の自治機関が置かれ、地方の行政を事実上担った。のちの記録には、奴婢の文書を焼き捨てる、白丁など賤民の待遇を改める、若い寡婦の再婚を許す、名目のない雑税をなくす、門閥にこだわらず人材を登用する、日本と通じる者を厳しく罰する、土地を平等に分けて耕す、などの改革の項目が伝えられている。ただしこの「弊政改革12か条」は後年の記録に見えるもので、当時そのままの文面かどうかには議論がある。
戦う理由のなくなったはずの日本軍は、撤兵しなかった。7月23日、日本軍は漢城の景福宮を占領して国王を押さえ、親日的な政権を立てた。この政権のもとで、身分制の廃止などを掲げた甲午改革が進められていく。7月25日、日本海軍は豊島沖で清の軍艦を攻撃し、8月1日に宣戦布告した。日清戦争である。戦場は朝鮮の国土だった。

秋、全琫準は再び兵を挙げた。今度の敵ははっきりと日本だった。当初は武力に訴えることに反対していた崔時亨の系統の信徒たち(北接)も合流し、農民軍は10万を超えたとも言われる。目指したのは漢城で、その途中にある忠清道の公州が決戦の地になった。1894年の暮れ、公州の南の牛禁峙の峠に、日本軍の一大隊と朝鮮の官軍が陣を構えた。農民軍は火縄銃と刀と竹槍で、峠に向かって何十回も突撃を繰り返した。高所から近代的な小銃で撃ち下ろされ、斜面は死体で埋まった。数日の戦いの末、農民軍は壊滅し、生き残った人々も南へ追われながら討たれていった。日本側の死者はごくわずかだった。
全琫準は12月、全羅道の淳昌に潜んでいたところを、かつての部下の密告で捕らえられた。漢城へ送られる途中、担架の上で兵に囲まれながら、まっすぐ前を見すえる彼の写真が残っている。取り調べの記録によれば、なぜ兵を挙げたのかと問われて、民の苦しみを除くためだと答えたという。1895年4月、彼は処刑された。崔時亨も1898年に捕らえられ、処刑された。

犠牲者の数ははっきりしない。農民軍の戦死者に加え、各地の掃討で殺された人々を含めると数万から、数十万とする推計まである。東学はその後、天道教と名を改め(1905年)、1919年の三・一独立運動では、独立宣言書に署名した33人のうち15人が天道教の信徒だった。日本と清の戦争の引き金になった反乱として語られることの多いこの戦いは、韓国では、民衆が自分たちの手で社会を変えようとした最初の大きな試みとして、いまも記憶されている。