ワット・タイラーの乱

概要
黒死病で人手が減り、賃金を抑える法と人頭税に農民が怒った。ロンドンを占拠し、王と会い、指導者は殺された。それでも農奴制は崩れていく。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
1348年から翌年にかけて、黒死病がイングランドを襲った。人口の3分の1から半分が死んだとされる。畑を耕す人が足りなくなり、生き残った農民や職人は、より高い賃金を求め、より良い条件の領主のもとへ移ることができるようになった。土地を持つ側にとっては、危機だった。
議会は、賃金を疫病の前の水準に抑える法を定めた。1351年の労働者法である。働ける者は決まった賃金で働かねばならず、より高い賃金を求めて領主のもとを離れることも禁じられた。領主たちは、農奴の賦役(無償で領主の畑を耕す義務)を厳しく取り立てようとした。法と現実のずれは、30年のあいだ、農村に不満をため続けた。

そこへ、百年戦争の戦費がのしかかった。フランスでの戦況は思わしくなく、宮廷は金に困っていた。1377年、1379年、1380年と、人頭税が三度課された。とくに1380年の税は、15歳以上の者ひとりにつき1シリングで、貧しい者にも豊かな者にも同じ額がかかった。多くの村が人数を少なく申告して逃れようとし、政府は徴税の委員を送りこんで取り立てを厳しくした。
1381年5月の末、エセックスの村で、徴税の委員が村人たちに追い返された。騒ぎはテムズ川の対岸のケントにも広がり、ワット・タイラーという男が指導者に立った。タイラーの素性はほとんど分かっていない。ケントの一団には、ジョン・ボールという司祭も加わった。教会に逆らう説教をして投獄されていた人物で、農民たちに救い出された。アダムが耕し、イヴが紡いだとき、誰が貴族だったのか。彼の説教の文句として伝わるこの言葉は、身分の違いそのものを問うものだった。

6月13日、ケントとエセックスの農民たちはロンドンに入った。市内に彼らに共鳴する者がいて、門は内側から開けられたとされる。農民たちは、王の叔父で最も憎まれていた貴族ジョン・オブ・ゴーントの宮殿に火を放ち、法律家の住まいや記録を焼いた。
王リチャード2世は、まだ14歳だった。6月14日、王はロンドンの東のマイル・エンドで農民たちと会い、農奴制を廃し、自由な身分を与える証書を約束した。だが、その日のうちに、別の一団がロンドン塔に乱入し、大法官を兼ねるカンタベリー大司教と財務長官を引き出して首をはねた。二人は、人頭税の責任者と見なされていた。
翌15日、王は市の北のスミスフィールドで、再びタイラーと会った。タイラーは、農奴制の廃止に加えて、教会の財産の没収や、法の前の平等を求めたとされる。会見のさなかに言い争いになり、ロンドン市長がタイラーに斬りつけ、王の従者がとどめを刺した。農民たちが弓を構えたとき、王は馬を進めて、私がおまえたちの指導者だ、ついて来いと呼びかけ、群衆を引き離したと伝えられる。指導者を失った農民たちは、やがて村へ帰っていった。
その後、王は約束を取り消した。各地で反乱に加わった者が裁かれ、ジョン・ボールは7月に処刑された。反乱は、負けた。

それでも、時代の流れは変わらなかった。人頭税は、その後長く課されることがなかった。人手が足りない状態は続き、領主たちは農民を引きとめるために、賦役を金納に替え、土地を有利な条件で貸すようになった。15世紀のうちに、イングランドの農奴制は事実上消えていった。反乱が直接それを勝ち取ったのか、疫病のあとの人手不足がいずれにせよそうさせたのかは、歴史家のあいだでも見方が分かれる。
『国家はなぜ衰退するのか』は、この出来事を一つの分かれ道の例として取り上げた(物語「『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史」)。同じ黒死病のあと、西ヨーロッパでは農民の立場が強まったのに、エルベ川より東では、領主たちがかえって農民を土地に縛りつけ、農奴制が強まった。疫病という同じ衝撃が、もともとあった小さな違いによって、まったく逆の方向へ社会を押しやった。その違いが、何百年もあとの豊かさの差につながったと、著者たちは論じている。