できごと

ベンガル分割

Partition of Bengal
AD1905年
重要度 4
大英帝国ロシア帝国清イギリス領インド帝国オスマン帝国アラビアペルシアオランダ領東インドエチオピア帝国アフガニスタンフランス領インドシナラタナコーシン朝(シャム)日本マラヤ中央アジアの諸ハン国朝鮮王朝フィリピンネパールHarer (Egypt)オマーンセイロンAD1905年コルカタ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1905年の版図を描いています(21勢力)。

概要

行政の効率という名目で、ベンガルを東西に分けた。宗教で分ける線でもあった。猛烈な反対運動が起き、6年で撤回される。分けて統治するという手法が、はっきり見えた事例になる。

場所

コルカタ
22.57°N 88.36°E · インド・西ベンガル州

関わった人(1)

ラビンドラナート・タゴールAD1861年5月7日–AD1941年8月7日 · 分割反対の運動を歌で支えた

本文

20世紀の初め、イギリス領インドのベンガル州は、いまのインドの西ベンガル州とバングラデシュに加えて、ビハールやオリッサまでを含む巨大な州だった。人口は8000万人近い。州都カルカッタ(いまのコルカタ)は英領インドの首都でもあった。カルカッタには英語の教育を受けたベンガル人の知識層が育ち、19世紀からは文学や宗教、社会の改革の運動が盛んだった(ベンガル・ルネサンス)。彼らは、インド国民会議の創立の中でも声の大きな勢力になっていた。

1905年、インド総督カーゾンは、ベンガルを二つに分けると発表した。一つの州としては大きすぎ、治めにくい、というのが表向きの理由だった。新しく作られる「東ベンガル・アッサム州」は、ダッカを州都とし、住民の多数がムスリムだった。残った西のベンガルは、ヒンドゥーが多数になり、しかもビハールやオリッサを含むため、ベンガル語を話す人が少数になる。

東ベンガル、アッサム地方の地図
東ベンガル、アッサム地方の地図Wikimedia Commons Public domain

政府の内部の文書には、ベンガルの政治的な結束を弱めることが狙いの一つだと書かれていた。団結したベンガルは強いが、分ければ弱くなる、という趣旨の記録が残っている。行政の都合という表の理由の裏で、民族主義の中心だったカルカッタの知識層を割ることが意図されていた。宗教で住民を分ける線でもあった。

分割は1905年10月16日に実施された。この日、ベンガルの多くの人々は喪に服して断食し、店を閉めた。ラビンドラナート・タゴールは、ヒンドゥーとムスリムが互いの手首に紐を結んで兄弟のきずなを確かめ合おうと呼びかけ、自ら通りを歩いた。この時期にタゴールが作った歌の一つ「我が黄金のベンガル」は、のちにバングラデシュの国歌になる。「ヴァンデー・マータラム(母なる大地に敬礼を)」という言葉が、運動の合言葉になった。

Pope1880BengalPres2
Wikimedia Commons W. H. Allen and Co. · Public domain

反対運動は、スワデーシー(国産品を使う運動)とボイコットの形をとった。イギリス製の布や塩を買わず、インドで作られた品を使う。人々はイギリス製の布を広場に積み上げて燃やした。国産の布や石けん、マッチを作る工場や、政府の学校に代わる民族の学校も作られた。運動はベンガルを越えて、インドの各地に広がった。会議派の中では、この運動をきっかけに、穏健な請願に代えて大衆の運動を求める急進派の声が強まった。

一部の若者は、武器を取る道を選んだ。秘密の結社が作られ、イギリスの役人を狙った爆弾事件が起きた。1908年には、18歳の青年クディラーム・ボースが襲撃の罪で処刑され、英雄として歌に歌われた。タゴールは、運動が暴力や排他に向かうのを憂え、しだいに距離を置いた。のちに書いた小説『家と世界』には、スワデーシーの熱狂の陰の部分が描かれている。

1848年刊のベンガル地図
1848年刊のベンガル地図Wikimedia Commons Morse, Sidney E. (Sidney Edwards), 1794-1871 · Public domain

一方で、分割はムスリムの指導者たちのあいだに別の受け止め方を生んだ。東ベンガルのムスリムの多くは貧しい農民で、地主や金貸しはカルカッタのヒンドゥーが多かった。新しい州は、ムスリムにとっては自分たちが多数を占める地域で教育や役職を得る機会と見えた。1906年12月、ダッカで全インド・ムスリム連盟が結成された。イギリスは1909年の改革で、ムスリムが自分たちの代表を別に選ぶ仕組みを取り入れた。

1911年12月、デリーに来たイギリス国王ジョージ5世は、ベンガルの分割を取り消すことと、英領インドの首都をカルカッタからデリーに移すことを発表した。6年の運動が、分割を撤回させたのである。だが、取り消しはムスリムの側に、約束を反故にされたという不満を残した。

ラビンドラナート・タゴール(1909年)
ラビンドラナート・タゴールWikimedia Commons Generalstabens litografiska anstalt · Public domain

分割は撤回されたが、宗教で分けて治めるという考えは、政治の場に残った。1947年、インドが独立したとき、ベンガルは再び二つに分けられた(インドの独立)。その線は、1905年の線とよく似ていた。東の部分は東パキスタンとなり、1971年にバングラデシュとして独立する(バングラデシュの独立)。そのとき国歌に選ばれたのが、分割に反対してタゴールが作った歌だった。

同じ時代のできごと

内閣制度の創設AD1885年12月22日狂犬病のワクチンAD1885年7月6日ハルツームの陥落AD1885年1月26日コンゴ自由国1885年最初の摩天楼AD1885年ビルマの併合AD1885年11月28日砂場AD1885年インド国民会議の創立AD1885年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1905年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →