できごと

クレイステネスの改革

Reforms of Cleisthenes
BC508年
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC508年の版図を描いています(33勢力)。

概要

血縁の集団を解体し、10の地域に組み替えて代表を出させた。抽選で選ばれる評議会と、追放を投票で決める仕組み。民主政の骨格がここで組まれる。

場所

アテナイ
37.98°N 23.73°E · ギリシア・アッティカ

関わった人(1)

クレイステネスBC570年頃–BC508年頃 · 改革

本文

紀元前6世紀のアテナイは、貴族の家どうしの争いに揺れ続けていた。紀元前594年のソロンの改革は、借金のかたに奴隷にされる慣わしをやめさせ、財産によって政治に参加する権利を分けたが、争いを終わらせることはできなかった。その混乱の中から、ペイシストラトスが民衆の支持を得て権力を握る(ペイシストラトスの僭主政)。法の上の手続きによらずに一人で支配する、いわゆる僭主である。

ペイシストラトスの支配は比較的穏やかで、アテナイはこのころ豊かになったが、息子ヒッピアスの代になると締めつけが厳しくなった。紀元前510年、名門アルクメオン家などの亡命貴族が、スパルタの王クレオメネスの軍の助けを借りて、ヒッピアスを追い出した。

ヘロドトスによれば、クレイステネスがアテナイ政治を主導していた前507年、アテナイ人はペルシアに「土と水」を贈った
ヘロドトスによれば、クレイステネスがアテナイ政治を主導していた前507年、アテナイ人はペルシアに「土と水」を贈ったWikimedia Commons Abbott, Jacob, 1803-1879 · Public domain

僭主がいなくなると、再び貴族どうしの争いが始まった。中心にいたのは、アルクメオン家のクレイステネスと、スパルタと親しいイサゴラスだった。紀元前508年、イサゴラスがアテナイの最高の役職であるアルコンに選ばれると、クレイステネスは劣勢に立たされた。そこで彼は、それまで政治の外に置かれていた民衆を、自分の味方に引き入れた。歴史家ヘロドトスは、彼が民衆を自分の仲間にした、と書いている。

追いつめられたイサゴラスは、スパルタのクレオメネスを呼び寄せた。クレオメネスは少数の兵を連れてアテナイに入り、クレイステネスと、その仲間とされた700の家族を追放させ、さらに評議会を解散させようとした。ところが評議会はこれを拒み、民衆が立ち上がって、スパルタ兵とイサゴラスをアクロポリスに閉じ込めた。3日目、スパルタ兵は降伏して国外に去った。民衆は、クレイステネスと追放された人びとを呼び戻した。このとき動いたのは、指導者ではなく、名もない市民たちだった。

戻ったクレイステネスが行った改革は、根本的だった。それまでアテナイ人は、四つの部族に分かれていた。部族は血縁の集団とされ、古くからの有力な家が、その中の人びとを率いていた。政治の争いは、つまるところ有力者どうしが自分の地盤の人びとを動員して争う形をとった。これを解体した。

クレイステネスは、アテナイの領土であるアッティカ全体を、都市部、海沿い、内陸の三つの地域に分けた。それぞれの地域をさらに10に分けて、30の区画を作る。そして三つの地域から一つずつ区画を取って組み合わせ、新しい10の部族を作った。一つの部族の中に、都市の職人も、海辺の漁師も、内陸の農民も混ざることになる。同じ部族の人どうしが、遠く離れた土地に住んでいる。特定の有力者が、地元の人間関係だけで部族を握ることはできなくなった。

10の部族の名は、アテナイの伝説の英雄の名から取られた。候補の100人の名をデルフォイの神託に送り、神に10人を選ばせたと伝えられる。

改革の土台になったのは、デーモスと呼ばれる村や町の単位だった。アッティカには140ほどのデーモスがあり、市民はみな、自分の住むデーモスに登録された。18歳になった若者は、デーモスの集会で市民と認められて名簿に載る。それまで市民かどうかは、どの家の生まれかで決まっていたが、これからは、どのデーモスに登録されたかで決まる。市民の名にも、父の名に加えて、デーモスの名を添えて呼ぶ習わしが広がった。

政治の中心には、500人の評議会が置かれた。10の部族からそれぞれ50人ずつ出し、民会にかける議案を準備し、日々の行政を担った。一年を10の期間に分け、各部族の50人が交代で常任の当番を務める。評議員を抽選で選ぶ仕組みがいつ始まったかははっきりしないが、5世紀には抽選が定着していた。軍も10の部族ごとに組まれ、のちには部族ごとに一人ずつ、10人の将軍が選ばれるようになる。

そして、陶片追放(陶片追放)。毎年一度、民会で、その年に追放の投票を行うかを決める。行うと決まれば、市民は陶器のかけらに、追放すべきだと思う人物の名を刻んで投じる。投票の総数が6000に達したとき(一人が6000票を受けたとき、とする説もある)、最も多く名を書かれた者は、10年間アテナイを離れなければならない。裁判ではない。罪は問わない。財産も市民の権利も奪われず、10年がたてば戻れる。強くなりすぎ、僭主になりかねない人物を、血を流さずに遠ざけるための仕組みだった。後の時代の著作はこれをクレイステネスの創設とするが、実際に初めて使われたのは、改革から20年ほど後の紀元前487年だった。

クレイステネス自身は、改革のあと、記録からほとんど姿を消す。いつどこで死んだのかも分からない。当時の人びとが掲げた言葉は、まだ「民主政(デモクラティア)」ではなく、「法の前の平等(イソノミア)」だったと考えられている。

効果は、すぐに表れた。改革からまもなく、アテナイはスパルタやボイオティアなどの攻撃を次々に退けた。ヘロドトスは、僭主のもとでは近隣の国々より戦いに強いわけでもなかったアテナイ人が、僭主から自由になると、はるかに第一の者になった、人は自分のために働くとなれば励むからだ、と書いている。紀元前490年、ペルシアの大軍をマラトンで迎え撃ったのは(マラトンの戦い)、10の部族ごとに並んだ市民の重装歩兵だった。民主政の骨格が、ここで組まれた。それはやがてペリクレスの時代に完成し、近代の民主主義が振り返る原点になる。

動画(1)

宇野重規「民主主義とは何か:歴史から考える」ー高校生と大学生のための金曜特別講座UTokyo Channel古代アテネから現代まで、民主主義を歴史から考える東京大学の講座

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