五四運動

概要
パリ講和会議が、ドイツの山東の権益を日本に渡した。北京の学生3000人が天安門に集まり、親日派の曹汝霖の家を焼いた。逮捕、ストライキ、上海の商人の休業、日本製品の不買。政府は調印を拒んだ。新文化運動(『新青年』、陳独秀、胡適、魯迅、白話文)が政治になった。李大釗と陳独秀がマルクスを読み、1921年、共産党。
場所
39.90°N 116.41°E · 中国
本文
1912年に清が倒れて中華民国ができたが(辛亥革命)、共和国の中身はなかなか伴わなかった。大総統の袁世凱は議会を押さえつけ、1915年には自ら皇帝になろうとして失敗した(袁世凱の帝制)。袁世凱が死ぬと、北京の政府は軍閥と呼ばれる軍人たちが奪い合うものになった。外からは列強が利権を求めて圧力をかけていた。
山東半島はその焦点の一つだった。ドイツは19世紀の末から青島を租借し、山東を横切る鉄道や鉱山の権利を握っていた。1914年に第一次世界大戦が始まると、日本はドイツに宣戦して青島を攻め落とし、その権益を引き継ごうとした。1915年、日本は袁世凱の政府に二十一か条の要求を突きつけ、山東の権益の継承などを認めさせた。1917年には、イギリス、フランス、イタリアなどと秘密の取り決めを結び、講和の席で日本の山東の要求を支持するという約束を得た。さらに1918年、北京の段祺瑞政権は、日本から借款を受けるのと引き換えに、山東での日本の権益を「欣然同意」すると書いた公文を日本と交わしていた。

中国も1917年に連合国の側で参戦し、十数万人の労働者をヨーロッパの戦場の後方へ送っていた。1919年1月にパリ講和会議が始まると、中国の代表団は、戦勝国として、ドイツの山東の権益を中国に返すよう求めた。アメリカのウィルソン大統領が唱えた民族自決の言葉に、中国の多くの人が期待をかけていた。だが4月末、会議を仕切るアメリカ、イギリス、フランスの首脳は、山東の権益を日本に渡すことで合意した。日本が秘密協定と北京政府の公文を持ち出したためで、中国の代表には、自分の政府が同意していたことを覆す材料がなかった。
知らせは北京に届き、学生たちが動いた。5月3日の夜、北京大学で学生の集会が開かれ、翌日の行動が決まった。1919年5月4日の日曜日、北京の13の学校の学生およそ3000人が天安門の前に集まった。「青島を返せ」「二十一か条を取り消せ」と書いた旗を掲げ、外に向かっては国の権利を争い、内に向かっては国を売る者を罰せよと叫んだ。名指しされたのは、日本との交渉や借款にかかわった曹汝霖、章宗祥、陸宗輿の3人の高官だった。

学生たちは各国の公使館が集まる地区へ向かったが、警備に阻まれて入れなかった。行き先を変えて、曹汝霖の屋敷へ押しかけた。曹本人は逃げたが、居合わせた駐日公使の章宗祥が見つかって殴られ、屋敷には火が放たれた。警官が駆けつけ、学生32人が逮捕された。
運動はこの日で終わらなかった。翌日から北京の学生はいっせいに授業を拒み、ほかの都市の学生も続いた。北京大学の学長の蔡元培は、逮捕された学生の釈放に奔走したあと、辞表を出して北京を去った。6月の初め、北京で街頭演説をする学生が大量に捕らえられ、その数は千人を超えた。これが火に油を注いだ。6月5日、上海で商人たちが店を閉じ、工場の労働者が数万人規模でストライキに入った。学生、商人、労働者が同時に動いたこの抗議は、中国で初めての大規模な政治ストライキとされる。運動は天津や南京、武漢などに広がり、各地で日本製品を買わない運動が起きた。
北京の政府は折れた。6月10日、曹汝霖ら3人を罷免し、6月28日、パリの中国代表団はヴェルサイユで開かれた調印式に出席せず、対ドイツの講和条約に署名しなかった(ヴェルサイユ条約)。山東の問題は、その後1922年のワシントン会議の場で、日本が山東の権益を中国に返す取り決めとして決着している。

五四運動の背後には、数年前から続いていた思想の運動があった。1915年、陳独秀が上海で雑誌を創刊し、翌年から『新青年』と名づけた。彼は、中国を救うには、儒教の古い道徳を捨て、民主と科学を取り入れなければならないと説いた。民主と科学は、英語の頭文字をとって「徳先生」と「賽先生」とも呼ばれた。1917年、アメリカ帰りの胡適は、古典の文語ではなく、話し言葉に近い白話で文章を書くべきだと主張した。1918年には魯迅が、白話で書いた小説『狂人日記』を発表し、儒教の礼教が人を食うと書いた。新文化運動と呼ばれるこの流れが、五四をきっかけに教室と雑誌の外へ、街頭の政治へと出ていった。
運動は、思想の分かれ道にもなった。パリで裏切られた経験は、西洋の民主主義に期待していた若者の一部を、ロシア革命の側へ向かわせた。北京大学の図書館長だった李大釗は、すでに1918年からロシアのボリシェヴィキの勝利をたたえる文章を書いており、その図書館では、湖南から来た若い毛沢東が助手として働いていた。陳独秀もマルクス主義に傾いた。1921年7月、上海で中国共産党の第1回大会が開かれ、各地の代表13人が集まった。一方、胡適は、政治の主義を声高に語るより、一つずつ具体的な問題を解くべきだと唱え、自由主義の立場を守った。

五四運動は、のちにさまざまな立場から自分たちの起点として語られることになる。中華人民共和国の公式の歴史では、共産党が指導する革命の出発点とされ、5月4日は青年節として祝われる。台湾では、胡適に代表される自由主義と学問の運動として記憶されてきた。天安門広場の人民英雄記念碑の浮き彫りにも、この日の場面が刻まれている。1989年の春、同じ広場に集まった学生たちは、五四運動の70周年を掲げ、民主と科学をもう一度求めた(天安門事件)。