南北戦争

概要
奴隷制をめぐって国が二つに割れた。60万人以上が死に、合衆国は一つに戻る。
場所
39.83°N -77.23°E · アメリカ合衆国・ペンシルベニア州
関わった人(3)
エイブラハム・リンカーンAD1809年2月12日–AD1865年4月15日 · 大統領ユリシーズ・グラントAD1822年4月27日–AD1885年7月23日 · 北軍ロバート・E・リーAD1807年1月19日–AD1870年10月12日 · 南軍本文
アメリカ合衆国は、建国のときから奴隷制という矛盾を抱えていた。独立宣言は「すべての人は平等に造られている」とうたったが、南部の州では黒人の奴隷が綿花やタバコの畑で働かされていた。1860年の時点で、奴隷は約400万人いた。北部の州では奴隷制が廃止されていった一方、南部では綿花の栽培が広がり、奴隷制はむしろ経済の柱になっていった。
争いの火種になったのは、西への拡大だった。新しく州が加わるたびに、そこを奴隷州にするか自由州にするかで、議会の力の釣り合いが変わる。1820年と1850年に妥協が結ばれたが、1850年の妥協で定められた逃亡奴隷法は北部の反発を招いた。1852年のストウ『アンクル・トムの小屋』はベストセラーになり、奴隷制の残酷さを北部の人々に印象づけた。1857年には、最高裁がドレッド・スコット判決で、黒人は合衆国の市民ではなく、議会は西部の領土で奴隷制を禁止できないと判断した。

1860年、奴隷制の拡大に反対する共和党のエイブラハム・リンカーンが大統領に選ばれた。リンカーンは南部の奴隷制をすぐに廃止するとは言っていなかった。それでも南部の州は、自分たちの制度が脅かされると考え、12月のサウスカロライナを皮切りに、次々に合衆国からの脱退を宣言した。最終的に11州が南部連合を作った。
戦後、南部では、戦争は奴隷制ではなく州の権利をめぐるものだったという語り方が広まった。しかし脱退を宣言した州の文書は、奴隷制の維持を理由として明記している。ミシシッピ州の宣言は、自分たちの立場は奴隷制と完全に一体だと書いた。南部連合の副大統領スティーヴンズも、新しい政府の礎石は、黒人は白人と平等ではないという真理にあると演説している。

1861年4月12日、南軍がサウスカロライナのサムター要塞を砲撃し、戦争が始まった。北部は人口でおよそ2倍以上、工業力では比べものにならないほど優勢だった。それでも戦争は4年続いた。南軍のロバート・E・リーは、数で劣りながら何度も北軍を退け、北部に攻め込みさえした。
戦争の性格を変えたのが、奴隷解放宣言だった。1862年9月のアンティータムの戦いの後に予告され、1863年1月1日に発効した。反乱状態にある州の奴隷を自由とする内容で、北部側に残った奴隷州の奴隷は対象外だった。軍事的な措置という性格が強かったが、これで戦争は合衆国を守る戦いから、奴隷制を終わらせる戦いになった。約18万人の黒人が北軍の兵士として戦った。奴隷制を守る側に立つことになるため、イギリスやフランスは南部連合を承認しにくくなった。

この戦争は、近代の戦争の始まりとも言われる。兵と物資は鉄道で運ばれ、命令は電信で伝えられた。射程の長い小銃のために、正面からの突撃は大きな犠牲を生み、戦争の終わりには塹壕の戦いが現れた。写真家たちが戦場の死体を撮影し、その写真は北部の町で展示された。北部も南部も徴兵制を敷き、1863年のニューヨークでは徴兵に反発した暴動が起きて、黒人の住民が襲われた。北軍は南部の港を海から封鎖し、綿花の輸出を止めて南部の経済を締め上げた。
1863年7月、リーの軍はペンシルヴェニア州ゲティスバーグで3日間の戦いに敗れた。同じころ、西部では北軍のユリシーズ・グラントがミシシッピ川沿いの要地ヴィックスバーグを落とした。11月、リンカーンはゲティスバーグの戦没者墓地で短い演説を行い、人民の、人民による、人民のための政治を地上から絶やさない、と誓った。
その後、北軍の総司令官となったグラントは、損害を顧みず南軍を押し続けた。シャーマン将軍の軍はジョージアを横断し、鉄道や畑、倉庫を焼き払った。1865年4月9日、リーはグラントに降伏し、戦争は事実上終わった。アポマトックスの降伏である。グラントが示した条件は寛大で、南軍の兵は武器を置けば家に帰ることが許され、自分の馬を連れて帰って畑を耕すこともできた。グラントは後に大統領になる。その5日後、リンカーンは劇場で南部支持の俳優に撃たれ、翌朝死んだ。

死者は長く62万人とされてきたが、近年の研究では75万人前後とする推計もある。戦死より病死が多かった。アメリカが関わった他の戦争の死者を合わせた数に匹敵する。
戦後、憲法修正第13条で奴隷制が廃止され、第14条で市民権と法の平等な保護が、第15条で人種による選挙権の差別の禁止が定められた。南部を作り直す「再建」の時代には、黒人の議員も生まれた。しかし北部の関心は薄れ、1877年に連邦軍が南部から引き上げると、再建は終わった。南部では、読み書きの試験や人頭税で黒人から選挙権を奪う法と、学校や乗り物を人種で分ける制度が敷かれていった。それが崩れ始めるのは、約100年後の公民権法の時代である。