できごと

花山天皇の出家(寛和の変)

Abdication of Emperor Kazan
AD986年(寛和2年)6月
重要度 4
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概要

19歳の天皇が寵愛した女御を亡くして悲しみ、藤原兼家の子道兼が「一緒に出家しましょう」と夜、元慶寺へ連れ出した。天皇が剃髪すると道兼は「父に別れを」と逃げた。孫の一条天皇が7歳で即位し、兼家が摂政。道長の家は、ここから。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

本文

984年、十七歳で即位した花山天皇は、意欲のある若い君主だった。叔父の藤原義懐らに支えられて、荘園の整理や物価の統制など、新しい政策を次々に打ち出した。しかし天皇は、深く寵愛した女御の藤原忯子を、身ごもったまま亡くしてしまう。985年のことである。在位はまだ二年に満たなかった。悲しみに沈んだ天皇は、出家して亡き人の菩提を弔いたいと口にするようになった。

この心の揺れを見逃さなかったのが、右大臣の藤原兼家だった。兼家は、妻の一人である藤原道綱母が『蜻蛉日記』に、その気ままさと押しの強さを恨みを込めて書き残した人物でもある。兄の兼通と激しく争い、一時は出世の道を閉ざされたこともあった。兼家の娘の詮子は、前の円融天皇とのあいだに懐仁親王をもうけており、この皇子は花山天皇の皇太子に立てられていた。花山天皇が退けば、兼家の孫が天皇になり、兼家は外祖父として政治の実権を握ることができる。

花山天皇の肖像(出家後、元慶寺ゆかりの天皇)
花山天皇の肖像(出家後、元慶寺ゆかりの天皇)Wikimedia Commons Unknown · Public domain

その役目を負ったのが、兼家の三男で、天皇の身近に仕えていた藤原道兼である。道兼は、自分も一緒に出家してお供しますと天皇に勧めた。986年(寛和2年)6月23日の夜、道兼は天皇をひそかに内裏から連れ出す。歴史物語『大鏡』は、この夜の様子を詳しく描いている。月が明るく、天皇は人目につくのをためらった。ちょうど月に雲がかかったので、これで出家が成るだろうと言って歩き出したという。また途中、亡き女御の手紙を取りに戻ろうとした天皇を、道兼が、いまさら引き返せば機会を逃すと泣きまねまでして急がせたとも書かれている。三種の神器のうち、神璽と宝剣はすでに皇太子のもとへ移されていた。

一行が陰陽師の安倍晴明の家の前を通りかかると、中から晴明の声が聞こえた。天皇が位を退かれると見える天の異変があった、急いで参内の支度をせよ、と言っていたという。もちろん、これも『大鏡』の伝える話で、どこまで本当かはわからない。

花山院蔵
花山院蔵Wikimedia Commons 不明 · Public domain

天皇は、京都の東の山科にある元慶寺に着き、髪を下ろして出家した。すると道兼は、出家する前にもう一度父に今の姿を見せ、事情を話してから戻ってまいります、と言って寺を出たまま、二度と戻らなかった。天皇はそこで初めて、だまされたことを知り、泣いたと伝えられる。十九歳の天皇の在位は、こうしてあっけなく終わった。『大鏡』によれば、兼家は道兼が無理やり出家させられないよう、武士たちに道兼を見張らせていたという。翌朝、天皇の姿が消えたことを知った義懐も、後を追って出家した。

花山天皇の後には、兼家の孫が七歳で即位した。一条天皇である。兼家は摂政となり、ついで息子たちを次々に高い位に引き上げた。政治の実権は兼家の家に集まり、兼家の死後は、長男の道隆、ついで道兼が関白になる。道兼は関白になってわずか数日で病死し、「七日関白」と呼ばれた。その後に権力を握ったのが、兼家の五男の藤原道長である。一条天皇の宮廷には、のちに道隆の娘の定子と、道長の娘の彰子がそれぞれ后として入り、定子には清少納言が、彰子には紫式部が仕えた。藤原氏の摂関政治の絶頂(摂関政治の頂点)は、この一夜の策略から始まったともいえる。

月岡芳年「花山寺の月」(明治23年)
月岡芳年「花山寺の月」(明治23年)Wikimedia Commons Yoshitoshi Tsukioka (Taiso) (1839-1892) · Public domain

花山天皇は、その後、法皇として仏道の修行に励んだと伝えられる。熊野や西国の霊場を巡ったとされ、西国三十三所の巡礼を再興した人物としても語られる。一方で、恋にまつわる騒ぎも多かった。996年には、藤原伊周が、自分の思う女性のもとへ花山法皇が通っていると誤解して、弟の隆家とともに法皇に矢を射かける事件が起き、伊周は流される。これが、道長の対抗相手を退ける結果になった。和歌にすぐれ、勅撰集の『拾遺和歌集』の編纂にも関わったとされる花山法皇は、1008年、四十一歳で世を去った。

同じ時代のできごと

サモアとトンガの海の交流AD9〜15世紀カジュラーホーの寺院群AD10〜11世紀ポーランドの受洗AD966年安和の変AD969年(安和2年)3月アズハル学院の創設AD972年『蜻蛉日記』AD974年(天延2年)頃南唐の滅亡AD975年ノルウェー人のグリーンランド入植AD985年頃
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