人物

アレクサンドル2世

Alexander II
AD1818年4月29日 – AD1881年3月13日(享年62)
ロシア帝国重要度 5

概要

ニコライ1世の子。クリミアで負けた国を継いだ。農奴解放、地方自治(ゼムストヴォ)、陪審制、徴兵制、大学の自治。「解放皇帝」。アラスカを売り、中央アジアを取り、露土戦争でブルガリアを解放した。改革は不十分だと言われ、ナロードニキに何度も狙われた。1881年3月13日、ペテルブルクで、憲法の草案に署名した日、爆弾。

所属

ロシア帝国

関わったできごと(2)

クリミア戦争AD1854年9月14日 · 負けを継いだ農奴解放令AD1861年3月3日 · 解放した

本文

アレクサンドル2世は1818年4月29日、モスクワに生まれた。皇帝ニコライ1世の長男である。教育係には詩人のジュコフスキーがつき、少年に人間らしい感情と教養を身につけさせようとした。1837年には帝国の各地を巡る長い旅に出て、皇族として初めてシベリアの土を踏み、流刑地にいたデカブリストたちの境遇を知った。父のような厳格な軍人気質ではなく、穏やかで感受性の強い人だったと言われる。

1855年3月、クリミア戦争のさなかに父が死に、37歳で皇帝となった。セヴァストポリは陥落し、1856年のパリ条約で、ロシアは黒海に艦隊を置く権利を失った。ヨーロッパ最大の陸軍を持つはずの国が、英仏の軍に自国の領土で敗れたのである。鉄道もなく、農奴制に縛られた国の遅れは誰の目にも明らかだった。

クリミア戦争に関わる図版:William Simpson - Attack on the Malakoff
クリミア戦争Wikimedia Commons William Simpson, artist (1823-1899) E[dmond]. Morin, lithographer (1824 - 1882), working for "Day & Son, lithrs. to the · Public domain

1856年、アレクサンドルはモスクワの貴族たちを前にこう語った。農奴制は下から廃止されるのを待つより、上から廃止するほうがよい。数年にわたる委員会での議論を経て、1861年3月、農奴解放令が出された(農奴解放令)。2000万人を超える農奴が人格的な自由を得た。だが土地は無償ではなく、農民は国が地主に立て替えた代金を49年かけて返さなければならなかった。しかも分け与えられた土地は、多くの場合、それまで耕していたものより狭かった。土地は村の共同体に与えられ、農民は自由に村を離れることもできなかった。

解放に続いて、改革が相次いだ。1864年には地方の自治機関であるゼムストヴォが作られ、陪審制と公開の法廷を取り入れた司法改革が行われた。大学の自治が認められ、検閲は緩められ、都市にも自治が与えられた。1874年には、陸軍大臣ミリューチンのもとで、身分を問わず男子が兵役に就く国民皆兵の制度が始まった。こうした一連の改革は「大改革」と呼ばれ、アレクサンドルは「解放皇帝」の名で呼ばれるようになった。

アレクサンドル2世の肖像
アレクサンドル2世の肖像Wikimedia Commons Attributed to W. & D. Downey · Public domain

だが、皇帝は自由主義者ではなかった。1863年、ポーランドで蜂起が起きると、これを厳しく鎮圧した。カフカスでは長い戦争の末、チェルケス人など数十万の山岳民をオスマン帝国領に追いやった。中央アジアでは、タシケント、サマルカンドを次々に手に入れ、ヒヴァやブハラを保護国とした。東では清から、1858年と1860年の条約でアムール川の北とウスリー川の東を得て、ウラジオストクを築いた。一方で1867年、遠すぎて守りきれないアラスカを、720万ドルでアメリカに売り渡した。

1877年、オスマン帝国に支配されていたバルカンのスラヴ人を助けるとして、ロシアはトルコと戦った。露土戦争である。ロシア軍はイスタンブールの近くまで迫り、1878年のサン・ステファノ条約で、広大な大ブルガリアの自治国を作らせた。だがロシアの勢力拡大を恐れたイギリスとオーストリアが反発し、同じ年のベルリン会議でブルガリアは大きく削られた。ブルガリアでは今も、首都ソフィアにアレクサンドル2世の騎馬像が立ち、「解放者」として記憶されている。

戴冠式で家族から祝福を受けるアレクサンドル2世
戴冠式で家族から祝福を受けるアレクサンドル2世Wikimedia Commons Mihály Zichy · Public domain

国内では、改革が新しい不満を生んでいた。保守派には行き過ぎに見え、急進的な若者たちには不十分に見えた。1866年、元学生のカラコーゾフが皇帝を狙撃したが外れた。この事件を境に、皇帝は改革の手綱を締めていく。1870年代、若い知識人たちは「人民の中へ」を合言葉に農村へ入り、農民に革命を説いたが、農民は彼らを信用せず、多くが警察に突き出された。失望した一部は、皇帝そのものを倒すことに目標を移した。

1879年、秘密結社「人民の意志」は皇帝に死刑を宣告した。皇帝の乗る列車の線路に爆薬を仕掛けたが、爆破したのは別の列車だった。1880年2月には、冬宮の食堂の真下で爆発を起こした。来客の到着が遅れたため皇帝は無事だったが、警備の兵士ら10人ほどが死んだ。皇帝は内務大臣にロリス・メリコフを据え、弾圧と同時に、穏健な改革派を取り込む政策に転じた。

不平等条約の日露修好通商条約の交渉で派遣された開市開港延期交渉使節(1862)漢方医高嶋祐啓が描いたアレクサンドル2世
不平等条約の日露修好通商条約の交渉で派遣された開市開港延期交渉使節(1862)漢方医高嶋祐啓が描いたアレクサンドル2世Wikimedia Commons 高島祐啓 · Public domain

1881年3月13日(ロシア暦3月1日)の朝、皇帝はロリス・メリコフが用意した改革案に承認を与えた。選挙で選ばれた代表を、法律を審議する委員会に加えるというもので、憲法への小さな一歩とも見られている。その日の午後、閲兵からの帰り道、ペテルブルクのエカチェリーナ運河の岸で、最初の爆弾が皇帝の馬車を壊した。馬車から降りて負傷した護衛を気遣っていた皇帝の足元に、二人目の男が爆弾を投げた。両脚を砕かれた皇帝は冬宮に運ばれ、その日のうちに死んだ。62歳。

後を継いだ息子のアレクサンドル3世は、父の改革案を退け、厳しい反動の政治に戻った。暗殺の現場には「血の上の救世主教会」が建てられた。6年後、アレクサンドル3世の暗殺を企てた学生たちの中に、のちのレーニンの兄アレクサンドル・ウリヤノフがいて、処刑されている。上からの改革と、それに追いつかない社会の怒り。アレクサンドル2世の治世は、ロシアがその後も繰り返す問いを残した。

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