『負債論』で読む歴史
概要
お金は物々交換の不便から生まれた、という話は史料に無い。先にあったのは借りのほうだ、という本。
この物語について
お金は、どのようにして生まれたのか。経済学の教科書は、たいてい同じ話から始まる。昔、人びとは物々交換をしていた。だが、靴を作る人がパンを欲しくても、パン屋が靴を欲しくなければ取引は成り立たない。この不便を解消するために、誰もが受け取る品物、つまり貨幣が生まれた、という話である。『負債論』(デヴィッド・グレーバー、2011年、日本語版2016年)は、この最初のページを疑うところから始まる。

著者のデヴィッド・グレーバーは、アメリカ生まれの人類学者で、マダガスカルの村での長い調査で知られていた。本は、人類学と歴史学の知見を集めて、5000年にわたる負債と貨幣の歴史を書いた大著で、原題も「負債、最初の5000年」という。
物々交換で成り立っていた社会は、人類学が調べたかぎり、どこにも見つからない、と本は言う。人類学者たちは、物々交換だけで経済が回っている社会の例を、ついに記述できなかった。物々交換が起きるのは、たいてい、互いに知らない者どうしや、もう二度と会わない者どうしのあいだであり、それも貨幣を知っている人びとが、貨幣のないときに代わりにするものだった。同じ村の人どうしは、物を交換するのではなく、借りと貸しの関係のなかで暮らしていた。今日あげたものは、いつか返ってくる。その記憶が、人と人をつないでいた。
実際に古いのは、帳簿のほうだった、と本は言う。メソポタミアの神殿と宮殿は、硬貨が生まれる二千年以上前から、誰が何をどれだけ借りているかを粘土板に記していた。最初期の楔形文字の成立の多くは、こうした記録である。そこでは、銀の重さが計算の単位になったが、実際の支払いの多くは大麦や他の品物で行われた。お金は、まず物ではなく、計算の単位として、つまり借りの量を測る物差しとして生まれた、というのが本の見方になる。
借金は、人を縛る。メソポタミアの農民は、不作の年に借りた穀物を返せなくなると、土地を失い、ついには妻や子を、そして自分自身を、借金のかたに差し出した。社会が借金で奴隷になった人で溢れそうになると、王は借金を帳消しにする布告を出した。メソポタミアの徳政令である。紀元前24世紀ごろのラガシュの王の布告には、「自由」を意味する言葉が出てくる。それは文字どおりには「母のもとに帰る」という意味で、借金のために連れていかれた人びとが家に帰ることを指していた、と本は書く。こうした帳消しは例外ではなく、新しい王が即位するたびに繰り返される制度だった。ハンムラビ法典でも、多くの条文が借金と利子と質入れを扱っている。
紀元前8世紀ごろから、世界は大きく変わる。本はこの時代を、哲学者ヤスパースの言葉を借りて「枢軸の時代」と呼ぶ。この時代、ギリシアとインドと中国という互いに離れた場所で、ほぼ同時に、三つのものが一緒に現れた。硬貨と、職業的な軍隊と、大規模な奴隷制である。紀元前7世紀ごろ、小アジアのリュディアで作られたリュディアの鋳造貨幣が最初の硬貨とされる。本は、硬貨は市場のためではなく、兵士に払うために生まれた、と言う。王は兵士に硬貨で給料を払い、住民に硬貨で税を納めさせる。そうすれば、住民は兵士に食べ物や物を売って硬貨を手に入れなければならなくなり、兵士を養う市場が自然にできあがる。本はこれを、軍隊と硬貨と奴隷制が組み合わさった仕組みと呼んだ。中国では、秦の中国統一の前後の時代に、硬貨と軍隊と官僚制が一緒に大きくなっていった。
アテナイでも、借金は社会を引き裂いていた。紀元前6世紀の初め、借金のために奴隷になる市民が増え、内乱の寸前になったとき、ソロンは借金を帳消しにし、借金のかたに市民の体を差し出すことを禁じた。ソロンの改革である。本は、市民が借金で奴隷にならない、という原則から、アテナイの民主政への道が始まったと見る。
同じ数百年のあいだに、市場と暴力の世界を拒む思想も生まれた。仏陀、孔子、ピタゴラス、ヘブライの預言者たちである。釈迦の悟りに始まる仏教も、その一つとして出てくる。本は、世界宗教の多くが、借金の帳消しや、貧しい者への施しを説いたことを、硬貨と暴力の時代への応答として読む。
紀元600年ごろから、硬貨は姿を消しはじめる。ローマ帝国の西が崩れ、大きな軍隊が消えると、金と銀は教会や寺院に集められ、日常の取引は信用で行われるようになった。本はこの中世を、信用の時代として描く。イスラム世界の商人は、手形と小切手を使って遠くの町と取引した。ヨーロッパでも、シャンパーニュの大市では、商人たちが帳簿の上で貸し借りを相殺して、ほとんど現金を使わずに大きな取引をした。キリスト教もイスラムも、利子を取ることを罪とした。

15世紀の末から、現金と暴力が戻ってくる。大航海と征服の時代である。ポトシ銀山の開発では、先住民が強制的に働かされ、膨大な銀が掘り出されて世界に流れ出た。本は、征服者たち自身が、遠征の費用のための借金に追われていたことを強調する。返さなければならない借金が、略奪と暴力をさらに駆り立てた、という見方である。大西洋奴隷貿易では、アフリカの多くの社会で、借金を返せない者や、借金のかたにされた者が売られた。借金は、人を売る理由として何度も使われてきた。
近代の国家と銀行は、借金を新しい形の貨幣に変えた。1694年のイングランド銀行の設立は、戦争の資金を王に貸しつけ、その貸付金を元手に銀行券を発行した。本は、国の借金がそのまま通貨になったと書く。この仕組みが行きすぎるとどうなるかを示したのが、18世紀の初めのフランスのミシシッピ会社のバブルだった。

1971年8月、アメリカはドルと金の交換を止めた。金とドルの交換停止である。お金は、何の裏づけもない信用だけのものに戻った。本の時代区分では、これは信用の時代の新しい始まりになる。本はこの時代を「まだ始まったばかりの時代」と呼び、それがどんな形になるかはまだ決まっていない、と書いて終わる。本が書かれた直接のきっかけは、世界金融危機だった。返せない住宅ローンの借り手は責められ、同じように返せなくなった銀行は公的資金で救われた。本が出た2011年、グレーバーは、ニューヨークで始まった「ウォール街を占拠せよ」の運動に関わり、その中心的な人物の一人と見なされるようになった。
本のもう一つの主題は、借金が道徳の言葉で語られることである。借りたものは返すのが当たり前だ、という言葉は、誰もが正しいと感じる。だから、返せない人は悪い人になる。だが本は、この「当たり前」が、歴史のなかで、どれだけの人を奴隷にし、どれだけの暴力を正当化してきたかを問う。借金とは、暴力によって作られた関係が、道徳の言葉で覆われたものではないのか、というのが本の問いになる。

反論もある。経済史の専門家からは、事実の細かな誤りや、都合のよい例の選び方を指摘された。物々交換の神話についても、経済学者の多くはそれを歴史的な事実として信じていたわけではなく、説明のための単純な模型として使っていただけだ、という反論がある。それでも、貨幣の始まりを市場ではなく、借りと貸し、そして国家と暴力から見直したこの本は、経済学の外で広く読まれ、議論を呼び続けている。
この物語は、本が使ったできごとを、このデータベースの側から並べ直したものである。本文は写していない。章題は、番号と主題で書いた。同じ著者が最後に書いた『万物の黎明』は、物語物語「『万物の黎明』で読む歴史」として並べてある。借金を帳消しにする王の布告は、5000年前の粘土板にも、現代の議会の議論にも出てくる。返すべきものは何で、帳消しにすべきものは何か、という問いは、まだ答えの出ていない問いである。
動画(1)
この物語が起きた場所
筋(17)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 楔形文字の成立できごと紀元前32世紀最初に書かれたのは借りの記録だった最初に書かれたのは詩でも法でもなく、麦とビールの帳簿だった。文字は数えるために生まれている。ウルク
- メソポタミアの徳政令できごとBC24〜18世紀(王の代替わりごとに繰り返された)徳政令は例外ではなく、繰り返される制度だった王が代わるたび、農民の借金を帳消しにし、質に取られた家族を家へ返した。借金で社会が壊れることを、当時の王はよく知っていた。バビロン
- ハンムラビ人物BC1810年頃 – BC1750年頃メソポタミアを統一し、法を石碑に刻んで公開した。条文は282条に及ぶ。
- ハンムラビ法典できごとBC1754年頃法典の条文の多くが、借金と質入れを扱っている282条を石碑に刻んで公開した。刑罰は身分によって差があり、目には目をの原則で知られる。バビロン
- ソロン人物BC630年頃 – BC560年頃負債を帳消しにし、財産に応じて参政権を配分した。アテナイ民主政の下地を作る。
- リュディアの鋳造貨幣できごとBC7世紀後半硬貨は市場ではなく、兵に払うために生まれた金と銀の合金に刻印を打ち、重さを量らずに数えて使えるようにした。市場での取引が速くなり、税も給金も数で払えるようになる。サルディス
- ソロンの改革できごとBC594年借金の帳消しから民主政が始まった借金による奴隷化を禁じ、市民を財産で四つに分けた。民主政へ向かう最初の一歩とされる。アテナイ
- 釈迦の悟りできごとBC528年頃(年代に諸説あり)同じ数百年に、負債を否定する思想も生まれた菩提樹の下で苦の原因と、そこから離れる道に到った。年代は南伝と北伝で1世紀近く違う。ブッダガヤ
- 秦の中国統一できごとBC221年貨幣と軍隊と官僚が同時に現れる戦国の争いを制して中国が初めてひとつになった。度量衡・文字・車軌が揃えられる。咸陽
- シャンパーニュの大市できごと1150年中世は現金ではなく信用で回っていた年に六度、北の毛織物と南の香辛料がこの平野で出会った。伯爵が道中の安全と裁判を保証し、そこで為替と信用取引の作法が育つ。トロワ

- 大西洋奴隷貿易できごと1526年借金は人を売る理由として使われてきた1200万人以上がアフリカから大西洋を越えて運ばれた。三つの大陸の人口と社会が、この一つの流れで作り替えられる。ベニンシティ

- ポトシ銀山の開発できごとAD1545年現金と暴力が戻ってくる南米の銀がヨーロッパを経て中国へ流れた。世界で最初の、地球を回るお金の流れ。ポトシ
- イングランド銀行の設立できごとAD1694年国の借金が、そのまま通貨になったフランスとの戦費のために作られた。議会が返済を保証する仕組みで、王が勝手に借りられない国のほうが、かえって安く大きく借りられた。ロンドン
- ミシシッピ会社のバブルできごと1719年株価が1年で20倍になり、1年で崩れた。フランス王家は信用を失い、以後の戦費を高い利子で借りることになる。パリ

- デヴィッド・グレーバー人物AD1961年2月12日 – AD2020年9月2日著者マダガスカルを調べた人類学者で、借金の5000年を書き、ウォール街占拠の運動に加わった。59歳で急死し、最後の本は共著者が出した。
- 金とドルの交換停止できごとAD1971年8月15日第12章。金の裏づけが外れ、また信用の時代に入るアメリカがドルと金の交換をやめた。世界の通貨から、金という裏づけが消える。以後のお金は、国家への信用そのものになった。ワシントンD.C.

- 世界金融危機できごとAD2008年本が書かれた直接のきっかけ住宅ローンの証券化が世界に連鎖した。国境を越えた金融の速さが、そのまま危機の速さになる。ニューヨーク
重なっているストーリー
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