人物

ヘンリー2世

Henry II of England
AD1133年3月5日 – AD1189年7月6日(享年56)
イングランド王国重要度 4

概要

アンジュー伯の子で、エレノアと結婚してスコットランドからピレネーまでを治めた。巡回裁判と陪審の原型を作る。妻と息子たちが反乱し、最後は末子のジョンにも裏切られて死んだ。

関わったできごと(2)

クラレンドン巡回裁判令AD1166年 · 命じたトマス・ベケットの殺害AD1170年12月29日 · 王

本文

1133年3月5日、フランス西部のル・マンで生まれた。父はアンジュー伯ジョフロワ、母はイングランド王ヘンリー1世の娘マティルダである。マティルダは若いころ神聖ローマ皇帝に嫁ぎ、夫と死別して戻ってきた人で、生涯「皇后」と呼ばれた。11歳年下のジョフロワとの結婚は、父王が決めた政略結婚で、夫婦の仲は悪かった。

ヘンリー1世は、ヘイスティングズの戦いでイングランドを征服したウィリアム1世の息子である。彼はただ一人の嫡男を海難事故で失い、娘のマティルダを後継者に指名していた。ところが1135年に王が死ぬと、マティルダの従兄にあたるブロワ家のスティーヴンが、先にイングランドに渡って王位についてしまった。マティルダはこれを認めず、イングランドに攻め込んだ。こうして始まった内戦は、のちに「無政府時代」と呼ばれるほど長く続き、国土は荒れた。

ヘイスティングズの戦いに関わる図版:Bayeux Tapestry scene57 Harold death
ヘイスティングズの戦いWikimedia Commons Myrabella · Public domain

少年ヘンリーは、この戦いの中で育った。14歳で傭兵を率いてイングランドに渡り、資金が尽きて、敵のスティーヴンに帰りの旅費を借りたという話が伝わっている。父ジョフロワは、イングランドでの争いの間にノルマンディーを征服し、1150年にそれを息子に譲った。翌年に父が死ぬと、ヘンリーはアンジュー伯の地位も継いだ。

1152年、19歳のヘンリーは、ヨーロッパを驚かせる結婚をした。相手は、フランス王ルイ7世と離婚したばかりのエレノア・オブ・アキテーヌである。フランス南西部の広大なアキテーヌ公領を受け継いだ女性で、ヘンリーより11歳ほど年上だった。離婚からわずか8週間後の結婚で、彼女の領地はそっくりヘンリーのものとなった。

1152年のロワール川に隣接するモンソロー城の占領は、ジョフロワが兄に対して組織した反乱の終結を告げるものであった。
1152年のロワール川に隣接するモンソロー城の占領は、ジョフロワが兄に対して組織した反乱の終結を告げるものであった。Wikimedia Commons Suavemarimagno · Public domain

1153年、ヘンリーは再びイングランドに渡った。跡継ぎの息子を失ったスティーヴンは戦いに疲れ、ヘンリーを自分の後継者とする条約を結んだ。翌1154年、スティーヴンが死に、21歳のヘンリーはイングランド王となった。のちのプランタジネット朝の始まりである。こうして彼は、イングランドのほか、ノルマンディー、アンジュー、アキテーヌを合わせ、スコットランドとの境からピレネー山脈までを治めることになった。フランスにある領地だけでも、主君であるはずのフランス王の領地よりはるかに広い。後世、この広大な領域は「アンジュー帝国」と呼ばれる。のちには弟や息子を通じてブルターニュを、遠征によってアイルランドの一部をも押さえた。

彼は休むことを知らない王だった。側近たちは、王は朝から晩まで馬に乗り、狩りをし、食事も立ったまま済ませ、一日として同じ場所にとどまらない、と書いた。宮廷はいつも王を追いかけて移動し、どこで夜を明かすのか分からなかった。赤みがかった髪で、がっしりした体つき、脚は馬に乗りすぎてがに股だった。着るものには構わず、手は荒れていた。学問を好み、ラテン語を解し、短気で、怒ると床を転げ回って藁を噛んだという話まで残っている。

ヘンリーのはるかに大規模な軍勢がウェールズの軍勢によって罠にかけられたユーローの戦い(英語版)を描いたエドワード・フランク・ジレット(英語版)の画
ヘンリーのはるかに大規模な軍勢がウェールズの軍勢によって罠にかけられたユーローの戦い(英語版)を描いたエドワード・フランク・ジレット(英語版)の画Wikimedia Commons Edward Frank Gillett · Public domain

内戦で荒れた国を立て直すため、彼は王の裁判の仕組みを大きく変えた。王の裁判官を各地に巡回させ、重い犯罪を裁かせた(クラレンドン巡回裁判令)。土地の争いについては、土地の事情をよく知る近隣の12人の自由人に宣誓させ、事実を証言させて決める方法を広げた。それまでの決闘や神判による裁きに代わる、陪審制の原型である。王の裁判は領主の裁判より速く、公平で、手続きも整っていたので、人々は進んで王の裁判所に訴えるようになった。こうして、国中に共通する判例の積み重ねとして、イングランドのコモン・ロー(普通法)が育っていく。その出発点を、この王の治世に置くことが多い。

彼の治世の最大の汚点は、トマス・ベケットとの争いだった。ベケットは王の親友で、大法官として王に忠実に仕えた。王は教会を抑えるため、1162年、彼をカンタベリー大司教に任じた。ところが大司教になったベケットは、一転して教会の権利を守る側に立った。罪を犯した聖職者を王の裁判所で裁こうとする王に、真っ向から反対したのである。ベケットはフランスに亡命し、6年後に和解して帰国したが、対立は再燃した。1170年12月、王の怒りの言葉を真に受けた4人の騎士が、カンタベリー大聖堂でベケットを殺害した(トマス・ベケットの殺害)。ヨーロッパ中が王を非難し、ベケットは殉教者として聖人に列せられた。1174年、王は粗末な衣でカンタベリーを訪れ、ベケットの墓の前で修道士たちに鞭打たれて贖罪した。

トマス・ベケットの殺害に関わる図版:London. British Library, Cotton MS Claudius B II. f.341r (cropped)
トマス・ベケットの殺害Wikimedia Commons Unknown Miniaturist, English (active 1170s in Cirenchester) · Public domain

晩年の彼を苦しめたのは、家族だった。エレノアとの間には5人の息子と3人の娘が生まれたが、王は息子たちに領地の名目だけを与え、実権を渡さなかった。1173年、早世した長男に代わって跡継ぎとされていた若ヘンリー、そしてリチャード、ジェフリーが父に反旗を翻した。背後には、妻エレノアと、彼女の前夫であるフランス王ルイ7世がいた。王は反乱を鎮め、息子たちを許したが、妻エレノアは捕らえられ、王が死ぬまで16年近く幽閉された。

その後も息子たちの反抗は続いた。若ヘンリーは1183年に再び反乱を起こした最中に病死し、ジェフリーは1186年にパリの馬上槍試合で命を落とした。残ったリチャード1世(獅子心王)は、ルイ7世の子の若いフランス王フィリップ2世と手を組み、1189年、父を攻めた。病に冒されていた王は敗れ、屈辱的な和議を受け入れた。そのとき、反乱に加わった者の名簿を見せるよう求めた。最初に記されていたのは、最も愛していた末子ジョンの名だった。王は、もうどうでもよい、と言って顔を背けたと伝えられる。

ヘンリー2世とその嫡出の子供たちを描いた13世紀の画:(左から右へ)ウィリアム、ヘンリー若王、リチャード、マティルダ、ジョフロワ、エレノア、ジョーン、およびジョン
ヘンリー2世とその嫡出の子供たちを描いた13世紀の画:(左から右へ)ウィリアム、ヘンリー若王、リチャード、マティルダ、ジョフロワ、エレノア、ジョーン、およびジョンWikimedia Commons Anonymus, Genealogical roll of the kings of England ( British Library , Royal 14 B VI) · Public domain

1189年7月6日、ロワール川のほとりのシノン城で死んだ。56歳だった。遺体はフォントヴロー修道院に葬られ、のちに妻エレノアも息子リチャードも同じ修道院に眠ることになる。王位を継いだリチャードは十字軍に出かけて国を留守にし、その後を継いだジョンは大陸の領地の大半を失い、貴族たちにマグナ・カルタを突きつけられた。広大な帝国はたちまち崩れたが、彼が作った裁判と行政の仕組みは、その後もイングランドの国家の骨組みとして生き続けた。

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