ベンジャミン・フランクリン
概要
印刷屋から始めて、避雷針と二重焦点眼鏡を作り、独立宣言に署名し、フランスを味方につけた。「時は金なり」を書いた人でもある。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
フランクリンの雷の実験AD1752年 · 実験本文
1706年1月17日、イギリス領北アメリカの港町ボストンに生まれた。父ジョサイアは石鹸と蝋燭を作る職人で、二度の結婚で17人の子をもうけた。ベンジャミンはその15番目の子、男子では末っ子だった。父ははじめ牧師にしようと学校へ通わせたが、学費が続かず、学校教育は10歳までの2年ほどで終わった。あとは生涯、独学である。

12歳で、印刷屋を開いた兄ジェームズの徒弟になった。兄の新聞に、16歳のベンジャミンは中年の未亡人「サイレンス・ドゥーグッド」を名乗る投書を匿名で送り、評判を取った。だが兄とは折り合いが悪く、殴られることもあった。17歳のとき、年季の途中で船に乗って逃げ出し、フィラデルフィアに着いた。
自伝によれば、町に着いた朝、ポケットには1ドルあまりしかなかった。パン屋で大きな丸パンを3つ買い、2つを両脇に抱え、1つをかじりながら通りを歩いた。その姿を戸口から見て笑った娘デボラ・リードが、のちに妻となる。

印刷工として働き、ロンドンでの修業を経て、20代前半で自分の印刷所を開いた。新聞『ペンシルヴェニア・ガゼット』を買い取って発行し、1732年からは暦『貧しいリチャードの暦』を毎年出した。暦は天気や潮の予測のほかに、短い格言を載せて人気を集め、毎年1万部前後売れたとされる。「早寝早起きは人を健康に、豊かに、賢くする」はこの暦に載った言葉である。「時は金なり」は暦ではなく、1748年に若い職人に向けて書いた助言の文章に出てくる。
稼ぐだけでなく、町を作った。仲間と読書と議論の会を作り、会員が金を出し合って本を買う会員制の図書館を始めた。北アメリカで最初の例の一つとされる。さらに消防組合、のちのペンシルヴェニア大学となる学校、病院の設立にかかわった。街灯の改良や道路の舗装も提案している。1742年には、少ない薪で部屋を暖める鉄の暖炉を考え出した(フランクリン・ストーブ)。特許を取るよう勧められたが、人の発明の恩恵を受けているのだから自分の発明も皆に使ってもらうべきだとして、断ったと自伝に書いている。

1748年、42歳で印刷業の経営を共同経営者に任せ、事実上引退した。暮らしに困らない収入を得て、ここから電気の研究に打ち込む。電気には正と負の二つの状態があると考え、プラスとマイナスという言い方を広めた。雷は空の電気だと考え、1752年、嵐の中で凧を揚げて雷雲から電気を引き出したとされる(フランクリンの雷の実験)。この実験については本人がくわしい記録を残しておらず、本当に行ったのかを疑う研究者もいる。ただ、そこから生まれた避雷針は、本物の発明として広く使われた。
政治の舞台に立ったのは50歳近くなってからである。1754年には植民地が共同で防衛にあたる案を出し、蛇を切り分けた絵に「団結か、死か」と添えた漫画を自分の新聞に載せた。その後はペンシルヴェニアの代理人としてロンドンに長く住み、本国の議会で印紙法の撤廃を求めて証言した。はじめは大英帝国の一員としての植民地を思い描いていたが、1774年、本国の枢密院で公然と罵倒される場面に立たされ、本国と決別した。
レキシントン・コンコードの戦いで戦いが始まった直後にアメリカへ戻り、アメリカ独立宣言の起草委員の一人となった。起草の中心はトマス・ジェファソンで、フランクリンは草案に手を入れ、署名した。息子のウィリアムは本国に忠誠を誓い、父と子は二度と和解しなかった。

1776年末、70歳のフランクリンは、フランスの援助を得るためにパリへ渡った。かつらを着けず、アメリカの開拓地から来たような毛皮の帽子をかぶって社交の場に現れ、素朴な「新世界の賢人」として大人気になった。肖像入りの陶器や指輪が売られ、国王ルイ16世が嫌気を差したという話まで伝わる。1777年にアメリカ軍がサラトガで勝つと、翌1778年、フランスは同盟を結んで参戦した。この同盟がなければ、ヨークタウンの戦いの勝利は無かったとされる。1783年、イギリスとの講和条約に署名した。
パリ時代には、太陽の光を無駄にしないよう、パリ市民はもっと早起きするべきだと勧める戯れの文章も書いている。のちの夏時間(時計を一時間進める)の発想の先駆けとして引かれることがあるが、本人は冗談のつもりだった。遠近両用の眼鏡も、この頃の手紙に、自分で作らせて使っていると書いている。
1787年、81歳で憲法制定会議に出た。最年長の代表である(アメリカ合衆国憲法の制定)。意見がぶつかり合う中で、完全ではないがこれ以上のものは望めないと説いて、署名をまとめる側に回った。
若い頃には自らも奴隷を所有し、新聞に奴隷売買の広告も載せていた。晩年には考えを改め、奴隷制廃止協会の会長として、1790年2月、奴隷制を廃止するよう議会に請願した。請願は退けられた。2か月後の1790年4月17日、フィラデルフィアで亡くなった。84歳。

若い頃、自分の墓碑銘として「印刷屋ベンジャミン・フランクリンの体、ここに眠る」で始まる戯文を作ったことがある。古い本の表紙が擦り切れても、中身は新しい版になってまた現れる、という結びだった。科学者、発明家、外交官、建国の父として名を残しながら、名乗りはいつも印刷屋だった。