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Event / できごと

清の文字の獄

Literary Inquisition of the Qing
AD1772年
重要度 4

概要

乾隆帝が『四庫全書』の編纂を命じ、全国の書物を集めさせた。同時に、その中から満洲を貶める語(「夷」「虜」「胡」)や、明を懐かしむ文を探させた。10年余りで、3000種以上の書物が焼かれ、削られた。詩の一句や、避諱(皇帝の名の字を避けること)の失敗で、一族が処刑された。集めることと、消すことが、同じ事業の表と裏だった。

場所

北京
39.90°N 116.41°E · 中国

関わった人(1)

乾隆帝AD1711年9月25日–AD1799年2月7日 · 命じた

本文

清は満洲族の王朝。人口の1%ほどが、99%を支配した。辮髪(剃髪令、1645年。「頭を留める者は髪を留めず」)。科挙と官制は明のまま引き継いで、漢人の士大夫を取り込んだ。同時に、疑い続けた。

順治・康熙・雍正の代にも、文字の獄はあった。荘廷鑨の明史の獄(1663年。私撰の明史に、南明の年号を使い、清を「建州」と書いたことで、著者はすでに死んでいたので墓を暴いて遺体を裂き、一族と、序文を書いた者と、印刷した者と、本を買った者まで、70人以上が処刑された)。戴名世の南山集の獄(1711年)。雍正帝の曾静・呂留良の獄(1728〜33年。雍正帝は自ら『大義覚迷録』を書いて反論し、それを全国に配らせた。乾隆帝は即位すると、その本を回収して禁書にした)。

乾隆帝の代(1735〜96年)が、最も多い。130件以上。そのうち約80%が、1770年代の10年に集中する。

1772年、『四庫全書』の編纂を命じた。全国から書物を集める。官が買い、あるいは献納させる。3462種、7万9000巻を選び、手で書写して、7部作り、各地の書閣に納めた。編纂には紀昀ら360人の学者、書写に3800人。10年。中国の伝統文化の集大成。

同時に、集めた本を検閲した。基準。満洲を貶める語(「夷」「狄」「虜」「胡」「奴」)。宋と金、明と後金の関係を、清に不利に書いたもの。明の遺臣の著作。「反清復明」を思わせる語。皇帝の名の字を避けなかったもの(避諱)。

結果。全部を焼いた本(全毀)2453種、部分を削った本(抽毀)402種、版木を壊したもの、そして書き換えたもの(『四庫全書』に収める際に、原文の語を静かに直した。だから、四庫本と、それ以前の版本は、文が違う)。

失われた本の数は、収められた本の数に匹敵する、と言われる。魯迅は書いた。「清人が『四庫全書』を編纂して、古書の様式が変わり、古人の文章が失われた。この一事は、明人が古書を刻んで改竄したことより、はるかに悪質である」。

個別の事件。

1755年、胡中藻の詩に「一把心腸論濁清」(濁と清の字が並んでいる)。処刑。 1778年、徐述夔の遺稿『一柱楼詩』に「明朝期振翮、一挙去清都」(「明朝」は「明日の朝」、「清都」は「天帝の都」の意味だが、明と清の字が読み込まれている)。徐はすでに死んでいたので、墓を暴いて遺体を裂き、子と孫を処刑した。序文を書いた官僚も。 1781年、尹嘉銓が、亡父を孔子廟に祀ることを願い出た。乾隆帝は「不知進退」と怒り、家宅を捜索させて、著作の中の言葉を罪として、絞首刑にした。 避諱の失敗(皇帝の名前「弘暦」の字をそのまま書いた)で、罪に問われた例も多い。

密告が奨励され、地方官は摘発の実績で評価された。誰も、何が罪になるか分からなかった。詩を作ることそのものが危険になった。士大夫は、政治と現代を語ることをやめ、古い文献の校訂と考証に沈んだ(考証学が発達した、という皮肉な結果がある)。

乾隆帝は、自分でも4万首以上の詩を作った。中国の歴史で最も多作の詩人だが、後世の評価は低い。

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