できごと

清の文字の獄

Literary Inquisition of the Qing
AD1772年
重要度 4
ロシア帝国大英帝国清スペイン帝国中央アジアの諸ハン国ムガル帝国カザフ・ハン国チベットAvaシャン諸邦日本大越大越朝鮮王朝ラオスの諸国フィリピンLan NaアイヌモシリMarathaアラカン藩王国AD1772年北京
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1772年の版図を描いています(20勢力)。

概要

乾隆帝が『四庫全書』の編纂を命じ、全国の書物を集めさせた。同時に、その中から満洲を貶める語(「夷」「虜」「胡」)や、明を懐かしむ文を探させた。10年余りで、3000種以上の書物が焼かれ、削られた。詩の一句や、避諱(皇帝の名の字を避けること)の失敗で、一族が処刑された。集めることと、消すことが、同じ事業の表と裏だった。

場所

北京
39.90°N 116.41°E · 中国

関わった人(1)

乾隆帝AD1711年9月25日–AD1799年2月7日 · 命じた

本文

清は、中国の東北から来た満洲人の王朝である(清の中国支配)。支配する側の満洲人は、支配される漢人に比べてごくわずかしかいなかった。清は明の科挙と官僚の制度をほぼそのまま引き継ぎ、漢人の読書人を役人として取り込んだ。一方で、1645年には漢人の男に満洲の髪型である辮髪を強い、従わない者は首を落とすとした。取り込みながら、疑い続ける。文字への取り締まりは、その疑いの表れだった。

書かれたものを罪に問う事件は、清の初めから起きていた。1663年、浙江の荘氏が私的に編んだ明の歴史の書が、清の祖先を貶め、清に滅ぼされた南明の年号を使っていたとして摘発された。編者はすでに死んでいたが墓をあばかれ、一族のほか、序文を書いた者、版木を彫った者、本を売り買いした者まで、70人あまりが処刑されたと伝えられる。1711年に始まった事件では、戴名世の文集『南山集』が南明の年号を使ったとして咎められ、著者が処刑された。1728年に始まる曾静と呂留良の事件では、康熙帝の後を継いだ雍正帝が、自ら反論の書『大義覚迷録』を著して全国に配らせた。

朝服姿の乾隆帝の肖像画
乾隆帝Wikimedia Commons Giuseppe Castiglione · Public domain

それでも、最も多くの事件が起きたのは、雍正帝の子の乾隆帝の時代である。60年にわたる治世のあいだに、文字の獄はおよそ130件を数えたとされ、その多くが1770年代から80年代に集中する。きっかけの一つが、1772年に乾隆帝が命じた『四庫全書』の編纂だった。

『四庫全書』は、古今の書物を経・史・子・集の四つの部に分けて集大成する、空前の事業である。全国の地方官に命じて、蔵書家から書物を献上させ、買い上げさせた。紀昀らが編集の中心となり、数百人の学者が内容を調べ、数千人が筆で書き写した。10年あまりの歳月をかけて、およそ3500種、8万巻近い書物が7部ずつ手で書写され、宮中や各地に建てられた書庫に納められた。中国の伝統の学問を一つに束ねる事業だった。

同じ作業が、検閲を兼ねていた。集めた書物は一冊ずつ調べられ、満洲人やかつての北方の異民族を「夷」「狄」「虜」「胡」と貶める言葉や、宋と金、明と清の祖先との争いを清に都合の悪いように書いた箇所、明を懐かしむ文、清に仕えなかった明の遺臣の著作が探し出された。そうした書物は丸ごと焼かれ、あるいは一部を削られ、版木を壊された。全国で焼かれたり禁じられたりした書物は3000種近いとされる。『四庫全書』に収められた書物にも、気づかれないように言葉を書き換えたものが多く、それ以前の版と文が違う。のちに魯迅は、清が『四庫全書』で古い書物を改め、もとの姿を失わせたことを、厳しく批判している。

個々の事件の多くは、詩や文の一句から起きた。1755年には、官僚の胡中藻の詩に「濁」と「清」の字を並べた一句があり、清の国号を濁ったものと言うのかと咎められて処刑された。1778年には、すでに死んでいた徐述夔の詩集の中に、「明朝」と「清都」という言葉を含む句が見つかった。明日の朝に羽ばたいて天の都を去る、という意味にも読めるが、明の復興を願い清を去るという意味だと決めつけられた。徐の遺体はあばかれて辱められ、孫たちは処刑された。皇帝の名の字を避けずにそのまま書いたことが、罪に問われた例もある。

1781年の尹嘉銓の事件は、さらに理不尽だった。退職した高官の尹は、亡き父に名誉ある称号を贈り、孔子の廟に祀ってほしいと願い出た。乾隆帝はその身のほど知らずに怒り、家を捜索させ、著作の中の言葉をあげつらって死罪とした。

何が罪になるのかは、誰にも分からなかった。密告が奨励され、地方の役人は摘発の数で評価された。役人が罪を見逃せば、自分も罰せられる。詩を作ること、文を書き残すことそのものが、命がけになった。清の中期の学者たちが、政治や同時代を論じるのを避け、古い経典の文字の校訂や言葉の考証に打ち込んだのは、この空気と無縁ではない、とする見方は根強い。考証の学は清の学問の大きな成果だが、その陰には、語ることを恐れた沈黙があったことになる。

乾隆帝自身は、生涯に4万首を超える詩を作ったとされる。中国の歴史で最も多くの詩を残した人物の一人だが、その出来を高く評価する者は少ない。書物を愛し、書物を集め、書物を焼いた皇帝だった。集めることと消すことは、一つの事業の表と裏だった。何を残すかを決める者は、何を消すかも決めている。

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