スィッフィーンの戦い

概要
アリーとムアーウィヤ。ウスマーンの血の報い。ユーフラテスの岸で3か月睨んで、3日戦った。負けそうなムアーウィヤの兵が槍の先にクルアーンを掲げた。「神の裁きを」。アリーは仲裁を受け、それを裏切りとした兵が出て行った。ハワーリジュ。4年後、彼らがアリーを殺した。
場所
35.95°N 39.05°E · シリア・ラッカ
関わった人(2)
アリーAD600年頃–AD661年 · 仲裁を受けたムアーウィヤAD602年頃–AD680年 · クルアーンを掲げさせた本文
657年の夏、ユーフラテス川の西岸、今のシリア北部のラッカに近いスィッフィーンの野で、二つのムスリムの軍がにらみ合っていた。一方を率いるのは、預言者ムハンマドのいとこで娘婿、第4代のカリフとなったアリー。もう一方は、シリアの総督ムアーウィヤである。数か月の対峙のあと、ついに始まった戦いは、思いもよらない形で止められた。ムアーウィヤの兵たちが、槍の先にクルアーンを掲げたのである。この戦いは、イスラーム共同体を、のちのスンナ派、シーア派、ハワーリジュ派へと分かつ出発点の一つになった。
ムハンマドが632年に死んだあと、共同体は、預言者の古い仲間たちをカリフ(後継者)に選んで率いられた。アブー・バクル、ウマル、ウスマーンの時代に、アラブの軍はヤルムークの戦いでビザンツ帝国からシリアを、カーディシーヤの戦いでササン朝ペルシアからイラクを奪い、短いあいだに巨大な領域を手に入れた。だが急な拡大は、戦利品と地位の配分をめぐる不満も生んだ。第3代のウスマーンは、自分の属するメッカの名家ウマイヤ家の者を重い地位に就けたと非難され、エジプトやイラクから来た不満を持つ者たちに、656年6月、メディナの自宅で殺された。クルアーンを読んでいるところを襲われたと伝えられる。

後を継いだのがアリーである。アリーは預言者に最も近い血縁であり、早くから信仰を受け入れた一人として尊敬されていた。だが、ウスマーンを殺した者たちがアリーの周りにいたこともあり、彼の即位を認めない者が現れた。預言者の妻だったアーイシャと、古参の教友タルハとズバイルは、ウスマーンの血の報いを求めて兵を挙げた。656年12月、イラクのバスラの近くで、アーイシャがラクダの上の輿から兵を励ましたことから「ラクダの戦い」と呼ばれる戦いが起き、アリーが勝って、タルハとズバイルは命を落とした。ムスリムどうしが大規模に殺し合った最初の戦いだった。
なお従わなかったのが、シリアの総督ムアーウィヤだった。彼はウスマーンと同じウマイヤ家の一族で、20年近くシリアを治め、ビザンツとの戦いで鍛えられた忠実な軍を持っていた。ムアーウィヤは、ウスマーンの血の付いた服と、夫をかばって切り落とされたウスマーンの妻の指を、ダマスクスのモスクに掲げさせたと伝えられる。アリーが殺害者たちを罰しないかぎり、彼をカリフとは認めない、というのが彼の立場だった。

657年、アリーはイラクのクーファから大軍を率いて北上し、ユーフラテス川をさかのぼって、スィッフィーンでムアーウィヤの軍と向き合った。伝承によれば、ムアーウィヤの側が先に川の水場を押さえ、アリーの軍に水を使わせなかった。アリーの軍は戦ってこれを奪い返したが、アリーは敵の側にも水を使うことを許したという。そのあと何か月も、両軍は使者を行き来させ、小競り合いを繰り返しながら、決戦を避け続けた。戦いの禁じられた聖なる月には休戦もした。同じ信仰を持つ者どうしが、互いに討つことをためらっていたのである。
交渉が実らず、夏の盛りに本格的な戦いが始まった。戦いは数日続き、両軍が夜も休まず斬り結んだ一夜は、兵のうめき声から「うなりの夜」と呼ばれた。アリーの陣には、90歳を超える老いた教友アンマール・イブン・ヤースィルがいた。かつて預言者は、アンマールは道を外れた一団に殺されるだろう、と言ったと伝えられていた。そのアンマールがシリア軍との戦いで討たれたことは、ムアーウィヤの側こそが道を外れた者だという証として、アリーの陣営を奮い立たせた。

戦いがアリーの側に傾き始めたとき、ムアーウィヤの側近で、エジプトを征服した老練な将軍アムル・イブン・アルアースが一計を案じた。シリアの兵たちに、クルアーンの写本の紙を槍の先に結びつけて掲げさせたのである。剣ではなく、神の書に裁かせよ、という呼びかけだった。アリーは、これは負けを逃れるための策略だと見抜いていたとされる。だが彼の陣営の兵、とりわけクルアーンをよく読む敬虔な者たちは、神の書を掲げる相手とは戦えないと言い、戦いをやめるようアリーに迫った。アリーは仲裁を受け入れるほかなかった。
仲裁人として、アリーの側からはアブー・ムーサー・アルアシュアリー、ムアーウィヤの側からはアムルが選ばれた。ところが、仲裁の取り決めが結ばれると、今度はアリーの陣営の一部が激しく反発した。正しいカリフであるアリーが、反逆者と対等な立場で人間の裁定に身を委ねるのは、神の命令に背くことだ。「裁きは神のみに属す」と叫んで、彼らはアリーの陣営を去った。その数は1万を超えたと伝えられる。彼らは「出て行った者たち」を意味するハワーリジュと呼ばれるようになった。

仲裁の会議は翌658年ごろに開かれたが、その結果は伝える史料によって食い違う。よく知られた話では、アブー・ムーサーがアリーとムアーウィヤの両方をカリフの座から退けると宣言したのに対し、アムルはアリーだけを退けてムアーウィヤを立てると言い放ち、話し合いは決裂したという。後の時代の脚色が多く加わっているとされるが、いずれにせよ仲裁はアリーに何ももたらさず、ムアーウィヤの立場を強めた。
アリーは658年、イラクのナフラワーンでハワーリジュを攻撃し、その多くを殺した。だが、この戦いは新たな恨みを残した。661年1月、クーファのモスクで朝の礼拝に向かうアリーを、ハワーリジュの一人イブン・ムルジャムが毒を塗った剣で襲い、アリーは2日後に息を引き取った。長男のハサンはしばらくしてムアーウィヤに位を譲り、ムアーウィヤはダマスクスを都とするウマイヤ朝を開いた(ウマイヤ朝の成立)。カリフの位は、選ばれる者から、一つの家で受け継がれるものになった。
アリーとその子孫こそが共同体を導く正統な指導者だと考える人びとは、「アリーの党派(シーア・アリー)」と呼ばれた。680年、アリーの次男フサインがイラクのカルバラーでウマイヤ朝の軍に殺されると(カルバラーの悲劇)、その流れはシーア派として固まっていく。一方、ウマイヤ朝をはじめ歴代のカリフを受け入れた多数派は、やがてスンナ派と呼ばれるようになる。ハワーリジュは、信仰の正しさだけが指導者の資格であり、重い罪を犯した者はムスリムではない、という厳しい考えを掲げて、各地で反乱を繰り返した。

ムスリムはこの時代の内乱を「フィトナ」と呼ぶ。試練、そして共同体の分裂を意味する言葉である。スィッフィーンの戦いの死者は両軍で7万人に上ったとアラブの史料は伝えるが、これは誇張とみられ、実際の数は分からない。確かなのは、槍の先に掲げられたクルアーンが、戦いを止めたと同時に、1400年近くたった今も続く分かれ目を生んだということだ。