ラ・ロシェルの包囲

概要
ユグノーの港。ナントの勅令で自治と要塞を持っていた。イギリスのバッキンガムが援軍を送った。リシュリューは14か月囲み、海に1.5キロの堤防を築いて港を塞いだ。2万7000の住民が5000に。餓死。降伏。ユグノーの政治と軍事の特権が消え、信仰は残された(1685年まで)。『三銃士』の舞台。
場所
46.16°N -1.15°E · フランス
関わった人(1)
リシュリューAD1585年9月9日–AD1642年12月4日 · 囲んだ本文
16世紀の後半、フランスは30年あまりにわたって、カトリックとプロテスタント(ユグノー)の内戦に引き裂かれた。1598年、アンリ4世が出したナントの勅令が、ようやく戦いを収める。ユグノーは信仰の自由を認められ、さらに、身を守るための「安全の場所」として、守備隊を置いた要塞都市を百を超えて持つことを許された。王国の中に、武装した別の勢力が住んでいる。のちに「国家の中の国家」と呼ばれる状態である。
その最大の拠点が、大西洋に面した港町ラ・ロシェルだった。人口はおよそ2万7000とされ、堅い市壁と自前の市政、自前の船団を持ち、イングランドやオランダとの交易で栄えていた。中世から王に特権を認められてきた町で、市民はその自治を誇りにしていた。
1610年にアンリ4世が暗殺されると、和解の土台は揺らぐ。1620年代、南西部でユグノーの貴族ロアン公とその弟スービーズ公が繰り返し兵を挙げ、ラ・ロシェルの船団も加わった。1624年に国王ルイ13世の宰相となったリシュリューは、王の権威の下にない武装勢力を許さなかった。彼が目指したのはユグノーの信仰を消すことではなく、その政治と軍事の力を取り上げることだった。
きっかけは外から来た。1627年7月、イングランドの寵臣バッキンガム公が艦隊を率いて、ラ・ロシェルの沖のレ島に上陸した。英仏の関係は、チャールズ1世がフランス王女アンリエット・マリーを妃に迎えたあとも、宗教や交易をめぐってこじれていた。ラ・ロシェルは初めはためらったが、9月、イングランドの側に立ち、王の軍と砲火を交えた。王の軍は町を囲み始める。レ島では、サン・マルタンの砦に籠もった王の守備隊が持ちこたえ、11月、バッキンガムは兵の多くを失って引き揚げた。

陸の側は、王の軍が全長12キロに及ぶ塁と砦の線で封じた。問題は海である。港が開いていれば、イングランドの船が食糧を運び込める。リシュリューは、港の入り口そのものを塞ぐことにした。湾口の幅はおよそ1.5キロ。建築家のクレマン・メテゾーとジャン・ティリオが指揮して、石を積んだ古い船を沈め、その上に石を積み上げていく。冬の荒波と潮の満ち引きの中での工事で、真ん中には潮を逃がす切れ目を残し、両岸と海上に砲台を並べた。1628年の春、堤防は完成した。枢機卿のリシュリューは自ら甲冑をまとい、陣頭で工事と包囲を指揮したと伝えられる。
市の中では、4月に市長に選ばれたジャン・ギトンが、最後まで戦う姿勢を崩さなかった。降伏を口にする者はこの短剣で刺す、と言って机に短剣を突き立てたという話が残るが、後の脚色も混じっているとされる。5月と9月から10月にかけて、イングランドの救援艦隊が二度やって来たが、堤防と砲台を破れずに帰っていった。その間の8月、救援を準備していたバッキンガムは、イングランドのポーツマスで一人の士官に刺し殺されている。

食糧はとうに尽きていた。馬、犬、猫、鼠を食べ、革や獣脂を煮て食べた。飢えと病で人が倒れ、包囲が終わったとき、生き残っていた住民は5000人ほどだったとされる。2万を超える人が死ぬか町を去った計算になる。1628年10月28日、ラ・ロシェルは降伏した。包囲は14か月に及んだ。数日後にルイ13世が町に入り、11月1日の諸聖人の日には、リシュリューがミサを捧げた。
降伏の条件は、町にとって厳しく、ユグノーにとっては思いのほか穏やかだった。市壁と要塞は取り壊され、市の自治の特権は廃止され、町にはカトリックの礼拝が戻された。一方で、住民の多くは命と財産を保障され、ユグノーとしての信仰も許された。翌1629年、南部での最後の抵抗を抑えたあと、王はアレスの恩赦令を出す。ユグノーは要塞と守備隊、政治的な集会の権利をすべて失い、信仰と礼拝の自由だけが残された。「国家の中の国家」はここで終わり、宗派としてのユグノーは残ったのである。
リシュリューは、国内ではプロテスタントの武力を潰したが、国外ではプロテスタントの国々と手を結んだ。三十年戦争では、ハプスブルク家に対抗するため、スウェーデン王グスタフ・アドルフに資金を出している。宗派より国家の利益を先に置くこの考えは、国家理性と呼ばれた。カトリックの枢機卿が、それを最もはっきりと実行した。

ラ・ロシェルで残されたユグノーの信仰も、長くは守られなかった。1685年、ルイ14世はナントの勅令そのものを廃止し、ユグノーに改宗を迫った。20万人ともいわれるユグノーが、オランダ、イングランド、プロイセンなどへ逃れ、その技術と資本を亡命先へ持ち去った。ラ・ロシェルでの降伏は、その長い道の途中の、決定的な一歩だった。
この包囲は、小説の舞台としても知られる。デュマの『三銃士』(1844年)で、ダルタニャンと三人の銃士は包囲の陣中にいて、賭けのために敵前の砦で朝食をとる。悪女ミレディが若い士官を操ってバッキンガムを殺させる筋立ては、実際の暗殺事件を下敷きにした創作である。リシュリューの堤防の跡は、いまも潮が引いたときに、湾の中にわずかに姿を見せる。