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Event / できごと

ラ・ロシェルの包囲

Siege of La Rochelle
AD1628年10月28日
重要度 5

概要

ユグノーの港。ナントの勅令で自治と要塞を持っていた。イギリスのバッキンガムが援軍を送った。リシュリューは14か月囲み、海に1.5キロの堤防を築いて港を塞いだ。2万7000の住民が5000に。餓死。降伏。ユグノーの政治と軍事の特権が消え、信仰は残された(1685年まで)。『三銃士』の舞台。

場所

ラ・ロシェル
46.16°N -1.15°E · フランス

関わった人(1)

リシュリューAD1585年9月9日–AD1642年12月4日 · 囲んだ

本文

1598年、ナントの勅令。ユグノーは信仰の自由と、150の「安全地帯」(要塞と守備隊)を得た。「国家の中の国家」。ラ・ロシェルは最大のもので、大西洋の港、人口2万7000、市壁、自治、艦隊、イギリスとオランダとの商売。

リシュリューは1624年に宰相になった。「ユグノーの党派を潰す」が最初の目標。1625年、スービーズ公(ロアン家)がラ・ロシェルの艦隊で反乱した。1627年、イギリスのバッキンガム公が、ラ・ロシェルの沖のレ島に上陸した(チャールズ1世はフランスと不和だった。妻がフランスの王女で、その侍女の追放で)。ラ・ロシェルは初めためらい、9月、イギリスの側について、王の軍に発砲した。

9月10日、包囲。ルイ13世が自分で来た(病気で一時パリへ)。リシュリューが指揮した。枢機卿が甲冑を着た。陸側に12キロの塁と砦。海側は、11月、レ島のバッキンガムが撤退した(半分を失って)。海からの補給を止めるために、リシュリューは堤防を築いた。建築家メテゾーとティリオ。港の入り口、幅1.5キロ、深さ20メートル。石を積んだ古い船を沈めて、その上に石を積んだ。幅8メートル、高さ20メートル(干潮時に3メートル出る)。中央に潮が通る隙間を残して、砲を置いた。3月に完成した。イギリスの艦隊が5月と9月に来て、堤防を破れなかった。

市の中。市長ジャン・ギトン。「自分の血の最後の一滴まで」。城壁に「我々は皆、ここで死ぬ」。食糧が尽きた。馬、犬、猫、鼠、皮、紙、草。1万人が飢えで死んだ。人口は2万7000から5000に(5400と記録)。

1628年10月28日、降伏。10月30日、ルイ13世が入った。11月1日、諸聖人の日、リシュリューがミサ。

条件。市壁と要塞は破壊。自治は廃止。カトリックの信仰の回復。ただし、ユグノーの信仰は認める。処刑はなし。1629年6月、アレスの恩赦令。ユグノーの軍事と政治の特権(安全地帯、集会)は全部廃止、信仰と礼拝は維持。「国家の中の国家」が終わって、宗派は残った。1685年、ルイ14世がナントの勅令を廃止するまで。

リシュリューは、ラ・ロシェルを取ったあと、三十年戦争でプロテスタントのスウェーデンに金を出した。国内ではプロテスタントを抑え、国外ではプロテスタントを使う。カトリックの枢機卿の、国家理性。

『三銃士』(デュマ、1844年)。ダルタニャンとアトス、ポルトス、アラミスが、ラ・ロシェルの包囲の中で、サン・ジェルヴェの砦で朝食をとる。ミレディがバッキンガムを暗殺させる(実際に、バッキンガムは1628年8月、ポーツマスで、フェルトンという士官に刺された)。

堤防の跡は、干潮のとき、少し見える。

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