人物

ホセ・デ・サン・マルティン

José de San Martín
AD1778年2月25日 – AD1850年8月17日(享年72)
アルゼンチン重要度 4

概要

アンデスを越えてチリとペルーを解放した。ボリバルと会談した後、すべてを譲って身を引く。

関わったできごと(1)

ラテンアメリカ諸国の独立1810年 · 南から

本文

ホセ・デ・サン・マルティンは1778年2月25日、ラ・プラタ副王領のヤペユ(いまのアルゼンチン北東部)に生まれた。父はスペイン人の軍人で、かつてイエズス会がグアラニー人のために作った集落の行政官を務めていた。6歳のとき、一家はスペインへ戻った。サン・マルティンは11歳で士官候補生として軍に入り、北アフリカで戦い、海でも戦った。

ホセ・デ・サン・マルティンの肖像(1828年頃)
ホセ・デ・サン・マルティンの肖像(1828年頃)Wikimedia Commons The exact author is disputed. Some sources attribute it to Jean Baptiste Madou, others to the art teacher of San Martin' · Public domain

1808年、ナポレオン・ボナパルトがスペインに兵を送り込み、兄を王位に据えると、スペインの民衆は各地で蜂起した。サン・マルティンはスペイン軍の将校として、この戦争を戦い、同年のバイレンの戦いではフランス軍を破る戦いで功をあげた。だが本国が混乱する中で、南米の植民地ではスペインから自立する動きが始まっていた。1811年、33歳のサン・マルティンは、20年以上仕えたスペイン軍を退き、ロンドンを経て、翌年ブエノスアイレスに帰った。なぜ彼が祖国の独立に身を投じる決心をしたのか、本人ははっきり語っていない。ロンドンやカディスで、南米の独立を目指す秘密結社に加わっていたことは分かっている。

ブエノスアイレスの革命政府は、北のアルト・ペルー(いまのボリビア)を経て、スペイン帝国の南米支配の中心であるペルーのリマを目指していたが、そのたびに撃退されていた。サン・マルティンは、北の高地を正面から攻めるのは無理だと見た。代わりに西のアンデスを越えてチリを解放し、そこから海路でペルーを突く、という大きな迂回の計画を立てた。彼はアンデスのふもとのメンドーサ地方の知事となり、3年をかけて軍を作った。武器や軍服の工場を建て、教会の鐘を溶かして大砲にし、奴隷だった黒人を兵に加えた。

1848年、パリで撮影されたダゲレオタイプ
1848年、パリで撮影されたダゲレオタイプWikimedia Commons Unidentified photographer · Public domain

1817年1月、アンデス軍と呼ばれた約5000の兵が、数千頭のラバや馬とともに、いくつもの峠に分かれてアンデスを越えた。主力が越えた峠は標高4000メートルを超え、兵は寒さと高山病に苦しみ、ラバや馬の多くが途中で死んだ。2月12日、山を下りた軍はチャカブコでスペイン軍を破り、首都サンティアゴに入った。チリの人々はサン・マルティンを最高指導者に推したが、彼はこれを辞退し、チリ人の盟友オイギンスにその座を譲った。1818年4月、マイプの戦いで勝利し、チリの独立は確かなものになった。

1820年8月、サン・マルティンは英国人の提督コクランの率いるチリの艦隊でペルーへ向かった。彼は決戦を急がず、宣伝と封鎖で王党派を追い詰めた。1821年7月、スペインの副王が高地へ退いた後のリマに入り、ペルーの独立を宣言して、護国卿という称号で政府の長になった。ただし、スペイン軍の主力はなおアンデスの高地に残っていた。

バイレンの降伏(ホセ・カサド・デル・アリサル画)。1808年のバイレンの戦いはサン・マルティンが戦った半島戦争の重要な戦闘の一つ
バイレンの降伏(ホセ・カサド・デル・アリサル画)。1808年のバイレンの戦いはサン・マルティンが戦った半島戦争の重要な戦闘の一つWikimedia Commons José Casado del Alisal · Public domain

その頃、北からはシモン・ボリバルの軍が、いまのベネズエラ、コロンビア、エクアドルを解放して南下していた。1822年7月、サン・マルティンはエクアドルの港町グアヤキルへ船で赴き、ボリバルと会った。二人は2日にわたって、ほとんど二人きりで話し合った。会談の記録は残っていない。南米の独立後の国の形をめぐって、君主制も考えていたサン・マルティンと、共和政を唱えるボリバルとの考えの違いや、ペルーでの戦いの主導権、グアヤキルの帰属などが話されたとみられるが、確かなことは分からない。

リマへ戻ったサン・マルティンは、9月、ペルー議会の開会の日にすべての地位を辞した。ペルーの残る戦いは、ボリバルに委ねられた。彼はその後、チリを経て故郷のアルゼンチンへ戻ったが、国内は中央と地方の対立による内戦状態で、彼にも疑いの目が向けられた。妻は彼の不在中に病死していた。1824年、サン・マルティンは幼い娘を連れてヨーロッパへ渡った。1829年に一度帰国しようとしたが、内戦が続いているのを知り、船から下りずに引き返した。

サン・マルティンの妻マリア・デ・ロス・レメディオス・デ・エスカラーダ
サン・マルティンの妻マリア・デ・ロス・レメディオス・デ・エスカラーダWikimedia Commons Carolus-Duran · Public domain

晩年はフランスで暮らし、目を悪くしながら、娘の家族とともに静かに過ごした。1850年8月17日、英仏海峡に面したブローニュ=シュル=メールで死んだ。72歳だった。遺骨は1880年にブエノスアイレスへ帰り、大聖堂に納められた。

サン・マルティンは、勝利を重ねながら権力の座を次々に人に譲った。その身の引き方は、南米の独立の英雄たちの中でも異例である。アルゼンチンでは祖国の父と呼ばれ、チリやペルーでも解放者として記念されている。グアヤキルで何が話されたのか、なぜ彼が身を引いたのかは、200年たっても推測するほかない。

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