ビロード革命
概要
学生のデモが警棒で打たれ、翌日から劇場が閉まり、市民フォーラムができた。11日。ヴァーツラフ広場に50万人。鍵を鳴らした。党が指導的地位を放棄し、12月29日、獄にいた劇作家が大統領に。血は流れなかった。「ビロード」。1993年、国は二つに分かれた。それもビロードだった。
場所
50.08°N 14.44°E · チェコ
関わった人(1)
ヴァーツラフ・ハヴェルAD1936年10月5日–AD2011年12月18日 · 大統領に本文
1968年のプラハの春がソ連などの軍に押しつぶされたあと、チェコスロヴァキアでは「正常化」の時代が20年続いた。改革を支えた人々は職場を追われ、作家や学者がボイラー焚きや窓拭きをして暮らした。人々は政治に口をつぐみ、そのかわり週末を郊外の小屋で過ごし、物の不足を我慢しながら暮らした。1977年には劇作家のヴァーツラフ・ハヴェルらが、人権の尊重を政府に求める「憲章77」を発表したが、署名した人々は警察につきまとわれ、ハヴェルは何度も投獄された。
1989年、東ヨーロッパの空気が変わりはじめた。ポーランドでは連帯(連帯の結成)が選挙で勝ち、ハンガリーは西との国境の鉄条網を取り払った(汎ヨーロッパ・ピクニック)。チェコスロヴァキアでも、1月にはヤン・パラフの焼身から20年を記念して人々がヴァーツラフ広場に集まり、警察に蹴散らされた。ハヴェルは逮捕され、懲役の判決を受けたが、国内外の抗議で5月に釈放された。夏には、民主化を求める「いくつかの文」と題した請願に数万人が署名した。11月9日、隣の東ドイツでベルリンの壁が開いた(ベルリンの壁の崩壊)。それでもプラハの党の指導部は、何も変えようとしなかった。

1989年11月17日は金曜日だった。50年前のこの日、ナチ・ドイツはチェコの大学を閉鎖し、学生の指導者たちを処刑し、多くを収容所へ送っていた。その50周年を記念する集会が、当局の許可を得て開かれた。共産党の青年組織も共催した公式の行事で、1万5000人ほどの学生が集まった。プラハ郊外の大学の構内から、民族の詩人の眠るヴィシェフラトの墓地まで歩いて献花したあと、学生たちは予定になかった道を進みはじめた。目指したのは町の中心、ヴァーツラフ広場である。
夜、ヴルタヴァ川沿いから広場へ続くナーロドニー通りで、学生たちの列は機動隊に前後を挟まれた。学生たちは座り込み、花を差し出し、手には何も持っていないと両手を上げ、機動隊の盾の前にろうそくを置いた。午後8時を過ぎたころ、機動隊は逃げ道をふさいだまま警棒で殴りかかった。数百人が傷を負った。

その夜のうちに、一人の学生が機動隊に殴り殺されたといううわさが広まった。うわさは外国のラジオでも流れ、人々の怒りに火をつけた。死んだとされた学生は実在せず、のちに、秘密警察の若い工作員が学生のふりをして路上に倒れ、死んだと見せかけていたことが分かった。なぜそんなことが行われたのか、党の内部の誰かが指導部を入れ替えるために仕組んだのかは、いまもはっきりしない。
翌18日、学生たちはストライキに入り、プラハの劇場の俳優たちもそれに応じて芝居をやめ、舞台を市民の討論の場に開いた。19日の夜、ハヴェルら憲章77の人々や、さまざまな市民の団体の代表がプラハの劇場に集まり、「市民フォーラム」を作った。スロヴァキアのブラチスラヴァでも、同じ日に「暴力に反対する公衆」という組織ができた。

それからの毎日、ヴァーツラフ広場は人で埋まった。20日には20万人、その後はさらに増えた。人々はポケットから鍵の束を取り出して、いっせいに鳴らした。家に帰る時間だ、おまえたちの時代は終わった、という合図だった。ハヴェルは広場に面した出版社のバルコニーから群衆に語りかけた。24日、そのバルコニーに、1968年に追われたアレクサンデル・ドゥプチェクが21年ぶりに姿を現すと、広場はどよめいた。同じ日の夜、党の書記長ヤケシュをはじめ指導部が総辞職した。25日と26日には、プラハのレトナー平原に数十万人、一説に75万人が集まった。
11月27日の正午、全国でゼネストが行われた。2時間だけの短いストライキで、生活を止めないよう配慮されていたが、工場の労働者も、店の店員も、農場の人々も仕事を止め、国全体が市民フォーラムの側にあることをはっきりと示した。29日、連邦議会は、憲法から共産党の指導的な役割を定めた条文を削った。12月10日、大統領のフサークは、共産党員が少数派となる新しい政府を任命したうえで辞任した。12月28日、ドゥプチェクが連邦議会の議長に選ばれ、翌29日、その議会は満場一致でハヴェルを大統領に選んだ。議員の大半はまだ共産党員だった。この年の初めに牢屋にいた劇作家が、年の終わりにはプラハ城の主になった。

最初の学生デモから大統領の選出まで、6週間ほど。ナーロドニー通りの暴行のあと、死者を出すことなく体制が入れ替わった。同じ年の12月、ルーマニアでは多くの血が流れたが(ルーマニア革命)、チェコスロヴァキアの変化は、その滑らかさから「ビロード革命」と呼ばれた。名づけたのは西側の記者だったといわれる。スロヴァキアでは「優しい革命」と呼ばれる。ハヴェルは、真実と愛は嘘と憎しみに打ち勝たねばならない、という言葉を掲げた。
1990年6月、1946年以来初めての自由な選挙が行われ、市民フォーラムと暴力に反対する公衆が勝った。だが新しい国の形をめぐって、チェコとスロヴァキアの違いがすぐに表に出た。急いで市場経済へ移ろうとするチェコの側と、重工業が多く、その痛みを強く受けるスロヴァキアの側とで、考えが合わなかった。1992年の選挙では、チェコでは市場改革を進めるヴァーツラフ・クラウスが、スロヴァキアではスロヴァキアの自立を唱えるヴラジミール・メチアルが勝ち、二人は国を分けることで合意した。国民投票は行われなかった。ハヴェルは分離に反対して大統領を辞めた。1993年1月1日、チェコスロヴァキアはチェコとスロヴァキアの二つの国に分かれた。争いも血も無かったこの分離は、「ビロード離婚」と呼ばれた。ハヴェルはチェコの初代大統領に選ばれた。
ナーロドニー通りの、学生たちが殴られた場所の壁には、いくつもの手が「11月17日」の日付とともに浮き彫りにされた小さな記念碑がある。11月17日は、チェコでは自由と民主主義のための闘いの日として祝日になり、スロヴァキアでも記念日とされている。毎年その壁の前には、ろうそくと花が置かれる。