できごと

くじ引き将軍

Ashikaga Yoshinori chosen by lot
AD1428年(応永35年)1月
重要度 4
シベリアの諸集団白帳ハン国明チベットパガン朝日本クメール帝国朝鮮王朝スコータイ朝大越アユタヤ朝大越アイヌモシリチャンパAD1428年(応永35年)1月石清水八幡宮
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概要

四代将軍の足利義持は、跡継ぎを決めないまま死の床についた。誰を選んでも、選ばなかった兄弟と、それを推した大名が不満を持つ。重臣たちは、義持の四人の弟の名を籤に書き、石清水八幡宮の神前で引かせることにした。引いたのは管領で、封は義持が息を引き取ってから開かれた。当たったのは、青蓮院の門跡として僧になっていた義円である。彼は還俗して六代将軍義教となった。神が選んだ将軍だという建前は、誰にも異を唱えさせない。義教はその建前を背に、強い将軍として振る舞い、やがて家臣に殺される。

場所

石清水八幡宮
34.88°N 135.70°E · 日本・京都府八幡市

本文

室町幕府の四代将軍、足利義持(1386〜1428年)は、父の足利義満の死後、20年あまりにわたって幕府を比較的穏やかに治めた。父が進めた明との貿易をやめ、朝廷から父に贈られようとした太上天皇の尊号を辞退するなど、父とは違う道を選んだ将軍でもある。大名たちとの話し合いを重んじる政治で、彼の時代は室町幕府の安定期とされる。

ただ、義持には跡継ぎがいなかった。一人息子の義量に将軍職を譲ったが、義量は1425年、10代のうちに亡くなった。義持は新しい将軍を立てないまま、自ら政務を見続けた。そして1428年(応永35年)の正月、義持は、入浴のあとに悪化した傷がもとで重い病に倒れたと伝えられる。

足利義教の肖像
足利義教の肖像Wikimedia Commons ja : 不詳( 瑞渓周鳳 賛、 足利義政 花押) en : Unknown (inscription by Zuikei Shūhō , signature by Ashikaga Yoshimasa ) · Public domain

重臣たちは、病床の義持に跡継ぎを決めてほしいと願った。しかし義持は名を挙げなかった。自分が決めても、大名たちが従わなければ意味がない、と答えたと、側近の僧、醍醐寺三宝院の満済の日記に記されている。義持は、自分の指名が争いの種になることを恐れたのかもしれないし、自分の死後のことにまで責任を負いたくなかったのかもしれない。理由は本人にしか分からない。

候補は、義持の4人の弟だった。将軍家では、跡を継がない男子は幼いうちに寺に入れられ、僧になるのが習いである。4人とも、それぞれ名のある寺の僧になっていた。誰を選んでも、選ばれなかった兄弟が不満を抱く。その兄弟を推していた大名も不満を抱く。そして、選んだ重臣が恨まれる。義持自身が決めない以上、重臣の誰が決めても角が立つ。

足利義教像(法観寺蔵)還俗間もない頃の姿と伝わる
足利義教像(法観寺蔵)還俗間もない頃の姿と伝わるWikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

満済や管領の畠山満家らが話し合い、一つの方法に落ち着いた。人が選ばなければよい。神に選んでもらう。義持は、自分の死後にくじを引くことなら構わないと承知したとされる。くじを引く場所は、京の南、男山の上の石清水八幡宮と決まった。源氏の氏神である八幡神を祀る社で、源氏の流れをくむ足利将軍家にとって、最も重い神だった。

手順は慎重に整えられた。満済が4人の名を書いた紙を作って封をし、1月17日、管領の畠山満家が石清水の神前で一つを引いた。だが、その場では開けなかった。翌18日、義持が息を引き取った。封が開かれたのはそのあとである。義持が生きているうちに開けば、それは神ではなく、義持が選んだことになってしまう。引かれた名は、義円だった。

足利義教の肖像(部分)
足利義教の肖像(部分)Wikimedia Commons 不詳 / Unknown · Public domain

義円は、天台宗の名門、青蓮院の門跡を務める僧で、天台座主にまで上った人物だった。年は30代の半ばである。くじに当たった義円は寺を出て俗人に戻った。僧として剃っていた髪が伸びるまで元服を待ち、名を義宣と改め、翌1429年に征夷大将軍に任じられた。のちに名を義教と改める。室町幕府の六代将軍である。陰では「くじ引き将軍」と呼ばれた。

義円がくじで選ばれた1428年は、大きな揺れの年でもあった。夏には近江の馬借の蜂起をきっかけに、借金の帳消しを求める農民たちが京の周辺で酒屋や土倉を襲う正長の土一揆が起きた。民衆が自分たちの力で徳政を求めた最初の大規模な一揆とされる。幕府の権威が試される中で、くじで選ばれた新しい将軍の政治が始まった。

足利義教の花押
足利義教の花押Wikimedia Commons 丸山可澄 · Public domain

義教は、神に選ばれたという建前を背に、強い将軍として振る舞った。大名家の跡継ぎ争いに口を出し、自分の意に沿う者に家督を継がせた。従わない者は討った。1438年に始まる永享の乱では、幕府に逆らう鎌倉公方の足利持氏を攻めて自害に追い込んだ。比叡山延暦寺とも激しく争い、抗議した僧たちが根本中堂に火を放って自ら命を絶つ事件まで起きた。

義教の怒りは、大名や寺社だけでなく、公家や側近にも向けられた。宴の席でのささいな失敗や、自分への態度の悪さを理由に、所領を取り上げられ、追放され、命を奪われる者が相次いだ。伏見宮貞成親王はその日記に「万人恐怖」と書きつけている。誰もが、次は自分かもしれないと怯えた。

1441年6月、播磨などを治める大名の赤松満祐が、関東の戦勝を祝う宴に義教を自分の屋敷へ招いた。猿楽の最中、屋敷の中から武者たちが斬り込み、義教は討たれた(嘉吉の乱)。満祐は、義教が自分の一族の所領を削り、いずれ自分も討たれると恐れていたとされる。将軍が家臣の屋敷で殺されるという前代未聞の事件に、同席していた大名たちの多くは逃げ出した。

くじは、誰も責任を負わない決め方だった。選ばれなかった兄弟も文句は言えない。神が選んだのだから。その強さは、そのまま選ばれた者の強さになった。誰にも選ばれていないから、誰にも恩がない。だから、誰の言うことも聞かなくてよい。義教の強さと、その強さが招いた最期は、くじという選び方と無関係ではなかった。

くじで人を選ぶことは、古代のアテナイでは、むしろ一人に力を集めないための仕組みだった(抽選器)。そこでは任期は短く、任期の後には厳しい会計の調べが待っていた。室町のくじには、任期も、退く仕組みも、調べもなかった。同じくじが、仕組みの違いによって、正反対の働きをしたのである。

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