ユリシーズ・グラント
概要
オハイオの皮なめしの子。ウェストポイント、米墨戦争、酒で軍を辞め、薪を売った。南北戦争で北軍の将軍に。フォート・ドネルソン(「無条件降伏」)、シャイロー、ヴィックスバーグ、リンカーンが総司令官に。「戦う男だ」。リーを追い詰めた。18代大統領。黒人の権利を守ろうとして、KKKを弾圧し、汚職に囲まれた。破産して、喉の癌で、死ぬ1週間前に回想録を書き終えた。マーク・トウェインが出版し、遺族が救われた。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(3)
米墨戦争AD1847年9月14日 · 若い中尉で南北戦争1861年 · 北軍アポマトックスの降伏AD1865年4月9日 · 受けた本文
ユリシーズ・グラントは、1822年4月27日、アメリカ中西部のオハイオ州のオハイオ川沿いの村ポイント・プレザントに、皮なめし業者の長男として生まれた。生まれたときの名はハイラム・ユリシーズ・グラントといった。物静かで、皮なめしの血なまぐさい仕事を嫌い、馬の扱いだけは誰よりもうまい少年だった。父の手配で陸軍士官学校ウェストポイントに入ることになったが、推薦状を書いた議員が名を「ユリシーズ・S・グラント」と書き間違え、そのまま学校の名簿に載った。Sは母の旧姓シンプソンからとられたと説明されるようになり、頭文字のU.S.から、同級生には「アンクル・サム」と呼ばれた。1843年、39人中21番目の成績で卒業した。乗馬の腕は学校の記録になったが、望んだ騎兵には配属されなかった。
1846年に米墨戦争が始まると、グラントは歩兵の連隊の補給の係として従軍し、許されて前線の戦闘にも加わった。モンテレーの戦いでは、馬の脇腹にしがみついて敵の銃火の中を駆け抜け、弾薬を運んだ。だが彼は晩年の回想録で、この戦争は、強い国が弱い国に仕掛けた最も不正な戦争の一つだったと書いている。1848年、彼はミズーリの農園主の娘ジュリア・デントと結婚した。ジュリアの父は奴隷を所有していた。

平時の軍隊は、彼には退屈で、寂しい場所だった。1854年、家族と遠く離れたカリフォルニアの辺境の砦に勤めていたとき、飲酒を巡る噂のなかで、彼は軍を辞めた。ミズーリに戻り、自ら建てた丸太の家を「ハードスクラブル(やっとの暮らし)」と名づけて農業を営んだが、うまくいかず、セントルイスの町角で薪を売って暮らしをしのいだこともあった。1860年、38歳の彼は、イリノイ州のゲイリーナで、父の皮革の店の店員になっていた。誰の目にも、人生に失敗した元軍人だった。
翌1861年、南北戦争が始まり、すべてが変わった。軍の経験者が足りない中、グラントはイリノイの志願兵の連隊長に、まもなく准将に任じられた。1862年2月、彼はテネシー州の要衝フォート・ヘンリーとフォート・ドネルソンを攻めた。降伏の条件を尋ねてきた南軍の司令官に、彼は、無条件かつ即時の降伏以外の条件は受け入れないと返書を送った。1万人を超える南軍が降伏し、北軍の初めての大きな勝利になった。頭文字のU.S.は「無条件降伏(アンコンディショナル・サレンダー)」のグラントと読み替えられ、彼の名は北部じゅうに広まった。

2か月後のシャイローの戦いでは、南軍の奇襲を受けて大きな損害を出し、2日目に押し返したものの、両軍の死傷者は2万3千人を超えた。グラントを更迭せよという声が上がったとき、リンカーン(エイブラハム・リンカーン)は、この男を手放すことはできない、彼は戦うのだ、と答えたと、ある政治家が回想している。1863年7月4日、グラントは、ミシシッピ川の要塞の町ヴィックスバーグを長い包囲の末に降伏させ、川の全域を北軍の手に収めて、南部連合を東西に断ち切った。11月にはチャタヌーガの包囲を破った。1864年3月、リンカーンは彼を中将に昇進させ、北軍の全軍の総司令官に据えた。
東部に移ったグラントは、南軍の名将ロバート・E・リーの軍に、休む間を与えずに挑み続けた。荒野の戦い、スポットシルヴェニア、コールド・ハーバーと、1864年の5月から6月にかけて激戦が続き、北軍は膨大な犠牲を出した。コールド・ハーバーの正面からの突撃では、わずかな時間に数千人を失い、グラントは回想録で、あの攻撃だけは悔やんでいると書いた。北部の新聞は彼を「屠殺者」と呼んだ。だが彼は、この線で戦い抜く、夏中かかろうとも、と書き送り、退かなかった。兵と物資で勝る北軍が戦い続ければ、南軍はいずれ尽きる。ピーターズバーグの9か月の包囲の末、1865年4月9日、リーはヴァージニア州のアポマトックスで降伏した(アポマトックスの降伏)。グラントは、泥のついた普段の軍服のまま正装のリーを迎え、南軍の将兵が馬を連れて家に帰り、春の畑を耕せるよう寛大な条件を与えた。勝ったと知って祝砲を撃ち始めた部下を、彼は止めさせた。5日後、彼は夫妻でリンカーンから観劇に誘われたが、断って旅に出た。その夜、リンカーンは劇場で撃たれた。

1868年、グラントは共和党から大統領に選ばれ、翌年、46歳で第18代大統領に就任した。2期8年の任期のあいだ、彼は戦後の南部の再建に取り組み、黒人の男性に投票の権利を保障する憲法修正第15条の成立を後押しした。南部では、白い頭巾で顔を隠したクー・クラックス・クランが、黒人や共和党の支持者を襲っていた。グラントは1871年、取り締まりのための法を作って連邦の軍と司法を動かし、サウスカロライナでは人身保護の令状の停止まで行って、クランをいったん壊滅に追い込んだ。一方で、彼の政権は汚職にまみれた。周りの人々を信じすぎたグラントのもとで、ウイスキーの税金を巡る役人の着服や、閣僚の収賄が次々に発覚した。1873年には恐慌が起き、北部の世論は南部の再建への関心を失っていった。
大統領を退いたグラントは、1877年から2年あまりをかけて妻と世界を回った。イギリス、エジプト、インド、中国を経て、1879年には日本を訪れ、明治天皇と会見した。彼は、琉球の帰属を巡って争う日本と清に、戦争を避けて話し合うよう勧めた(琉球処分)。東京の上野公園には、このとき夫妻が植えた木がいまも残っている。

晩年のグラントを襲ったのは、破産と病だった。1884年、息子が共同経営者になっていた投資の会社が、相棒の詐欺で倒れ、グラントは全財産を失った。同じ年、長年の葉巻が祟ったのか、喉に癌が見つかった。残される妻のために、彼は回想録を書くことを決めた。友人の作家マーク・トウェインが、自分の出版社から出し、売り上げの多くを遺族に渡す約束をした。痛みで声が出なくなると、グラントは紙に鉛筆で書き続けた。1885年7月、ニューヨーク州の山荘で原稿を書き上げ、その1週間ほどのちの7月23日に亡くなった。63歳だった。2巻の回想録は大評判になり、ジュリアには45万ドルほどの印税が入った。簡潔で率直なその文章は、いまもアメリカの軍人の回想録の中で最も優れたものの一つとされる。ニューヨークには巨大な墓廟が建てられ、彼の肖像は50ドル札に刻まれた。大統領としての評価は長く低かったが、近年は、黒人の権利を守ろうとした姿勢が見直されている。