辛亥革命

概要
2000年続いた皇帝の制度が終わった。ただし共和国はすぐに軍閥に割られ、統一までさらに時間がかかる。
場所
30.55°N 114.32°E · 中国・湖北省武漢市
関わった人(4)
魯迅AD1881年9月25日–AD1936年10月19日 · この時代を書いた西太后AD1835年11月29日–AD1908年11月15日 · その3年前に死んでいる孫文AD1866年11月12日–AD1925年3月12日 · 指導袁世凱AD1859年9月16日–AD1916年6月6日 · 清を退位させた本文
19世紀の半ばから、清は外からも内からも揺さぶられ続けていた。アヘン戦争でイギリスに敗れて港を開かされ、太平天国の乱では十数年の内戦で数千万人が死んだとされる。1895年、日清戦争で、かつて朝貢国の一つと見ていた日本に敗れたことは、とりわけ深い衝撃を与えた。列強は港や鉄道の利権を次々に手に入れ、中国は切り分けられる瓜にたとえられた。
改革の試みはあった。1898年、若い光緒帝は康有為らを登用して、政治や教育の制度を一気に変えようとした。だが、宮廷の実権を握る西太后が反撃し、改革は100日ほどで潰えた。1900年の義和団の乱では、外国人を排斥する民衆に宮廷が乗り、8か国の連合軍に北京を占領された。その後になって清は、科挙を廃止し、憲法を作ると約束し、近代的な軍隊である新軍を各地に作った。改革はようやく本気になったが、遅すぎた。1908年、光緒帝と西太后が相次いで死に、3歳の溥儀が皇帝になった。

その間に、皇帝の制度そのものを倒そうとする人々が育っていた。広東出身の医師孫文は、ハワイと香港で教育を受け、1894年に革命の結社を作った。翌年の蜂起に失敗すると、清の懸賞金をかけられながら、日本、ヨーロッパ、アメリカを渡り歩いて華僑から資金を集めた。1905年には東京で、いくつもの革命団体をまとめた中国同盟会を作り、民族の独立、民権の確立、民生の安定を説く三民主義を掲げた。その後も南部で十回近い蜂起を試みたが、どれも失敗している。
1911年の春、清の政府は民間で建設が進んでいた鉄道を国有化し、その建設資金を外国からの借款でまかなうと決めた。自分たちの金で鉄道を作ろうとしていた四川の地主や商人たちは猛反発し、暴動にまで発展した。その鎮圧のため、湖北の新軍の一部が四川へ回された。

きっかけは、武昌での偶発的な蜂起になる。10月9日、長江をはさんだ漢口のロシア租界で、革命派が作っていた爆弾が暴発した。駆けつけた警察に、蜂起の計画書と、新軍の中の同志の名簿が押収された。名簿に名前のある兵士たちは、捕まるのを待つより先に動いた。10月10日の夜、武昌の新軍の兵が挙兵し、翌日には町を押さえた。指導者がいなかったため、兵士たちは清の軍の旅団長だった黎元洪を担ぎ出して、ほとんど無理やり軍政府の長にした。
各省が次々に独立を宣言する。2か月足らずのうちに、中国本土の十数の省が清からの離脱を宣言した。誰かが周到に準備した革命というより、清の支配がもう誰にも支えられていなかったことが、一気に表に出た。

孫文は、当時アメリカにいた。コロラド州のデンバーで、新聞でこれを知ったと伝えられる。彼はすぐには帰らず、まずイギリスやフランスで、列強が清に金を貸さないよう働きかけた。12月の末に上海に着くと、革命派の各省の代表から臨時大総統に選ばれた。1912年1月1日、南京で中華民国の成立が宣言された。
だが、実力は袁世凱にあった。清の新軍の中でも最強の北洋軍を育てた人物で、清の朝廷はこの危機に彼を総理大臣に呼び戻していた。袁世凱は、清の側に立って革命派と戦うふりをしながら、革命派とも取引した。
孫文は、清帝の退位と共和政の維持を条件に、大総統の座を袁世凱へ譲った。南京の政府には、北洋軍と戦って勝てる軍も資金もなかった。1912年2月12日、6歳の溥儀は退位した。秦の始皇帝から2000年あまり続いた皇帝の制度が、ここで終わった。翌月、袁世凱は北京で臨時大総統に就いた。
その袁世凱は、議会と憲法に縛られることを嫌った。1913年、議会の第一党となった国民党の指導者宋教仁が上海の駅で暗殺され、背後に袁世凱がいると疑われた。孫文らは兵を挙げたが敗れ、孫文はふたたび日本へ亡命した。袁世凱は議会を解散し、1915年の暮れには自ら皇帝になろうとした。各地の軍人が反発して独立を宣言し、1916年、83日で帝政を撤回した。その年のうちに、袁世凱は病で死んだ。
その死後、中国は軍閥に割られる。北京の政府は、そのときどきに力のある軍人の手に移り、地方では将軍たちが自分の軍と税で土地を治めた。1915年に日本が突きつけた二十一か条の要求と、それを認めた第一次世界大戦後の講和会議への怒りは、1919年の五四運動となって噴き出した。

皇帝は消えたが、統一された共和国はすぐには生まれなかった。辮髪は切られたが、人の心は変わらない。魯迅は1921年の小説『阿Q正伝』で、革命の騒ぎに乗じて何も分からないまま流され、最後は銃殺される男を描いて、看板だけが掛け替えられた革命を突き放した。
孫文は、その統一を見ずに死ぬ。晩年はソ連の援助を受け、共産党と手を組んで国民党を立て直し、軍を育てた。1925年3月、北京で病死した。革命はまだ成っていない、という言葉を遺したとされる。その遺志を継いで北伐を進め、1928年に国民政府のもとで中国をひとまず統一したのは、蒋介石だった。いまも台湾では10月10日が「双十節」として建国の記念日になり、中国大陸でも孫文は革命の先駆者として敬われている。海峡の両岸が、ともに自分たちの起点の一つとして仰ぐ、数少ない出来事である。