エイブラハム・リンカーン
概要
南北戦争を戦い抜き、奴隷解放を宣言した。終戦の5日後に暗殺される。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(3)
南北戦争1861年 · 大統領奴隷解放宣言AD1863年1月1日 · 署名した遺体を、家に返すAD1865年4月21日 · 遺体が旅をした本文
1809年2月12日、アメリカ合衆国の西の辺境だったケンタッキー州の丸太小屋で生まれた。父トマスは字のほとんど読めない開拓農民だった。7歳のときに一家でインディアナへ移り、森を切り開いて暮らした。9歳で母を病で亡くしている。

継母のサラは、本好きの少年をかわいがった。学校に通ったのは、全部合わせても1年に満たないといわれる。借りた本を繰り返し読んだ。聖書、『イソップ物語』、ワシントンの伝記などである。体は大きく力が強く、斧で柵の横木を割る仕事が得意で、のちに「横木割り」というあだ名で選挙を戦った。
19歳の頃、平底船で荷を積んでミシシッピ川を下り、ニューオーリンズまで行った。そこで初めて、奴隷の売り買いを目の当たりにしたと伝えられる。
20代でイリノイ州のニューセイラムという小さな村に移り、店員、郵便局長、測量士と、職を転々とした。先住民との戦いに義勇兵として加わり、隊長に選ばれたこともある。州議会の議員に選ばれ、独学で法律を学んで弁護士の資格を取った。州都スプリングフィールドで弁護士として働き、馬で各地の巡回裁判を回った。
1842年、ケンタッキーの裕福な家の娘メアリー・トッドと結婚した。4人の息子が生まれたが、成人したのは長男だけで、3人は幼くして、あるいは少年のうちに死んでいる。

1847年から1期だけ連邦議会の下院議員を務め、アメリカ・メキシコ戦争に反対した。不人気で、いったん政界を離れる。1854年、奴隷制を新しい準州に広げる道を開く法律が通ると、これに強く反発して政治に戻り、新しくできた共和党に加わった。1857年のドレッド・スコット判決は、奴隷制をめぐる対立をさらに深めていた。
1858年、上院議員の選挙で、民主党の大物ダグラスと各地で討論会を重ねた。分かれて争う家は立っていられない、この国は半ば奴隷、半ば自由のままで続くことはできない、という演説はこの選挙のものである。選挙には負けたが、討論で全国に名が知られた。

1860年、共和党の大統領候補に選ばれ、当選した。得票は4割ほどで、南部ではほとんど票を得ていない。就任の前に、南部の7州が合衆国からの離脱を宣言した。
1861年4月、南部連合の軍がサウスカロライナのサムター要塞を砲撃し、南北戦争が始まる。南北戦争を戦い抜き、奴隷解放を宣言した。ただ、はじめの目的は合衆国の分裂を防ぐことだった。新聞への公開の手紙で、奴隷を一人も解放せずに連邦を救えるならそうするし、全員を解放して救えるならそうする、と書いている。

戦争は長引き、北軍は敗れ続けた。慎重すぎる将軍マクレランを解任し、何人もの司令官を替えた末に、西部で勝ち続けていたユリシーズ・グラントに全軍を任せる。南部の綿花と奴隷の労働が戦争を支えていることも、明らかになっていった。
1862年9月、北軍がアンティータムの戦いで南軍の侵攻を止めたのを機に、予備の宣言を出し、1863年1月1日、奴隷解放宣言が発効した。合衆国に背いている州の奴隷を自由とするもので、北軍側にとどまった境界の州の奴隷は対象外だった。それでも戦争の意味は、連邦を守る戦いから、奴隷制を終わらせる戦いへと変わった。黒人の兵士の入隊も認められ、終戦までに18万人ほどが北軍で戦っている。

1863年11月、激戦の地ゲティスバーグの戦没者墓地の式典で、2分ほどの短い演説をした。87年前、われらの父祖はこの大陸に、自由の中で生まれ、すべての人は平等に造られているという命題に捧げられた新しい国を生み出した、と始まり、人民の、人民による、人民のための政治を地上から消してはならない、と結ばれる。演説は300語に満たなかった。
戦争中の大統領は、強い権限を使った。裁判なしの拘束を許す措置をとり、反戦派の新聞の弾圧も黙認した。1862年には、ミネソタで蜂起したダコタ族の300人余りへの死刑判決のうち、多くを減刑したが、38人の処刑を認めた。アメリカの歴史で最大の集団処刑とされる。人種についての考えも、時代とともに変わった。若い頃の討論では、白人と黒人の政治的な平等を支持しないと語り、解放した黒人を国外へ移住させる案も考えていた。

1864年に再選された。2度目の就任演説では、誰に対しても悪意を抱かず、すべての人に慈愛をもって、と戦後の和解を呼びかけた。奴隷制を憲法で禁じる修正第13条を、議会で通すために力を尽くした。
1865年4月9日、南軍のリー将軍が降伏した。終戦の5日後に暗殺される。4月14日の夜、ワシントンのフォード劇場で喜劇を見ていたところを、南部びいきの俳優ジョン・ウィルクス・ブースに後ろから頭を撃たれた。翌朝、向かいの家で死んだ。56歳。

遺体を乗せた列車は、2週間かけて故郷のスプリングフィールドへ向かい、沿道に何百万もの人が集まった。身長は190センチを超え、陰鬱な気分に沈みがちで、それを冗談と小話でまぎらわす人だった。顎髭は、11歳の少女から、髭を生やせばもっと立派に見えると手紙をもらったことがきっかけで伸ばしたとされる。
修正第13条は、彼の死の年の暮れに成立し、合衆国から奴隷制が消えた。だが、解放された人々が平等な権利を手にするまでには、さらに100年の闘いが続く。奴隷制の非道を描いた『ストウ『アンクル・トムの小屋』』の作者に、リンカーンが「この大戦争を始めた小さな婦人」と声をかけたという話は後世の脚色とされるが、その小説が北部の世論を動かしたことは確かである。リンカーンの名は、自由と平等をめぐるアメリカの約束そのものとして語られ続けている。