概要
1970年11月12日の夜、ベンガル湾から巨大なサイクロンが、当時は東パキスタンだったガンジス川の河口の低い島々を襲った。高潮が島を呑み込み、30万人から50万人が死んだとされる。記録に残る最悪の熱帯の嵐である。西パキスタンの政府の救援は遅く、東の人々の怒りは頂点に達した。翌月の選挙では東の自治を掲げるアワミ連盟が圧勝し、それを認めない政府との対立は、翌年の独立戦争につながった。バングラデシュはその後、避難のための建物を海岸に建て続け、嵐の死者を大きく減らしている。
場所
22.69°N 90.65°E · バングラデシュ・バリシャル管区
本文
ベンガル湾は、ガンジス川とブラマプトラ川が運んだ泥で作られた、広く低い三角州に面している。海の高さとほとんど変わらない島々や砂州に、多くの農民と漁民が住んでいた。北に向かって狭くなる湾の形のせいで、嵐に押し上げられた海水は、行き場を失って高く盛り上がる。
1970年11月12日の夜、最大級のサイクロンがこの三角州の沿岸を襲った。高さ数メートルの高潮が、真夜中に島々を呑み込んだ。家も田も家畜も、人も、海に引き込まれた。死者は30万人から50万人と推計され、記録に残る熱帯低気圧の災害で最悪とされる。ボーラ島では、人口の多くが失われた。
当時、この地は東パキスタンと呼ばれ、千数百キロ離れた西パキスタンの政府に治められていた。国の軍も官僚も西の人々が握り、東の人々は、言葉でも経済でも差別されていると感じていた。サイクロンの後、政府の救援は遅く、足りなかった。外国の救援の方が早く届いたとも言われる。東の人々の怒りは、政府へ向かった。
12月7日の総選挙で、東の自治を掲げるムジブル・ラフマンのアワミ連盟は、東パキスタンのほとんどの議席を取り、国会で過半数を得た。しかし西の政府と軍はムジブに政権を渡さず、翌年3月、東で軍事の弾圧を始める。これがバングラデシュの独立の戦争につながった。独立したバングラデシュは、その後、沿岸に数千の避難のための建物を建て、嵐を知らせる仕組みを作り、ボランティアが村々を回って避難を呼びかけるようにした。同じ規模の嵐でも、死者は大きく減っている。