できごと

アントニヌス勅令

Constitutio Antoniniana
AD212年
重要度 5
アントニヌス勅令に関わる図版:Gießen, MS Papyrus Gissensis 40 Constitutio Antoniniana crop
Gießen, MS Papyrus Gissensis 40 Constitutio Antoniniana crop Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

概要

カラカラが帝国の自由人全員にローマ市民権を与えた。属州民も。「神々に感謝する者を増やすため」と勅令は言い、ディオは「相続税を取るため」と書いた。市民と属州民の区別が消え、「ローマ人」が地中海の人全部の名になった。

場所

ローマ
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州

本文

ローマの市民権は、もともとローマという一つの都市の市民の権利だった。ローマが勢力を広げるにつれ、市民権は少しずつ外へ広げられていった。紀元前1世紀の初め、同盟市戦争でローマに背いたイタリアの同盟市が戦いの末に市民権を勝ち取り、イタリアのほぼ全域の自由人が市民になった。ガイウス・ユリウス・カエサルはガリアやヒスパニアの人びとに市民権を与え、皇帝クラウディウスはガリアの有力者を元老院に迎えた。属州の兵が補助軍で25年ほど勤め上げれば、退役のときに市民権を与えられた。

市民権は、褒美であり、特権だった。市民はローマの法で裁かれ、皇帝に上訴することができ、むち打ちや磔のような屈辱的な刑から守られた。使徒パウロが、自分はローマ市民だと名乗って鞭打ちを免れ、皇帝への上訴を求めたという話が『使徒言行録』にある。その一方で、帝国の住民の多くは、市民ではない「属州民」のままだった。

カラカラ
カラカラWikimedia Commons Public domain

212年、皇帝カラカラは、帝国に住む自由人のほぼ全員にローマ市民権を与えた。ギリシア人も、シリア人も、エジプト人も、ガリア人も、ブリタニアの人びとも、この日からローマ市民になった。これがアントニヌス勅令と呼ばれるもので、カラカラの正式な名、アントニヌスから名づけられている(カラカラは彼が好んで着たガリア風の外套から来たあだ名だった)。

勅令が出される少し前、宮廷では血なまぐさい出来事があった。211年、父のセプティミウス・セウェルスがブリタニアで没し、カラカラは弟のゲタと共に皇帝になった。だが兄弟は激しく憎み合い、その年の末、カラカラは母の部屋で、母の腕の中にいたゲタを殺させた。続いてゲタの支持者とされた者たちが大量に殺された。

6世紀『フロレンティナ法典』に残る、ウルピアヌスによるアントニヌス勅令への言及(学説彙纂1.5.17)
6世紀『フロレンティナ法典』に残る、ウルピアヌスによるアントニヌス勅令への言及(学説彙纂1.5.17)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

勅令の本文は、エジプトで見つかったパピルスの断片に、ギリシア語訳の一部が残っている。そこでは皇帝が、自分を危険から救ってくれた神々に感謝を捧げるため、神々を敬う者を増やしたい、という趣旨のことを述べていると読める。弟の陰謀から救われたことへの感謝を指すと考える研究者が多い。パピルスには欠けた部分が多く、市民権を与えられなかった者として「降伏者」と呼ばれる人びとが除かれていたらしいが、それが誰を指すのかは、いまも議論が分かれている。

同じ時代の元老院議員で歴史家のカッシウス・ディオは、まったく別の理由を書いた。相続税と奴隷解放税は、ローマ市民だけが払うものだった。カラカラはその税率を5%から10%に引き上げ、そのうえで市民を一気に増やした。目当ては税収だった、とディオは言う。カラカラは兵士の給料を大幅に上げており、その財源が必要だった。ディオはカラカラを嫌っていたので、割り引いて読む必要があるが、税が理由の一つだったことは多くの研究者が認めている。

カッシウス・ディオ『ローマ史』5世紀写本のアントニヌス勅令に関する記述
カッシウス・ディオ『ローマ史』5世紀写本のアントニヌス勅令に関する記述Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

理由が何であれ、結果は大きかった。当時の帝国の人口は数千万と推定され、その多くがこのとき新たに市民になった計算になる。「ローマ人」は、もはやローマ市の出身者の名でも、イタリア人の名でもなく、地中海を囲む帝国の住民ほとんど全員の名になった。新しく市民になった人びとの多くは、皇帝の氏族名を取ってアウレリウスを名乗った。3世紀のエジプトや小アジアの記録や碑文には、アウレリウスの名を持つ人が急に増えている。

法の面でも変化が起きた。市民はローマ法に従うことになり、各地のギリシアの都市法やエジプトの慣習法の上に、ローマ法がかぶさった。実際には地元の慣習はすぐには消えず、両者の調整が長く続いた。この時代に活躍した法学者ウルピアヌスやパウルスは、帝国全体に通じる法の体系を整えていった。彼らの著作は、のちに東ローマのユスティニアヌス帝が編ませた法典の大きな部分を占め、そこからヨーロッパの法の伝統へと受け継がれていく。

市民権が全員のものになると、市民であることの特権は意味を失った。代わりに重みを増したのは、裕福で身分の高い「より名誉ある者」と、貧しい「より卑しい者」という区別だった。後者は、市民であっても重い刑罰を科されるようになる。平等になったのは名前であって、扱いではなかった、とも言える。

カラカラ自身は、勅令の5年後の217年、パルティアへの遠征の途中、メソポタミアのカルラエの近くで、用を足すために馬を下りたところを近衛兵の一人に刺されて死んだ。近衛隊長マクリヌスの差し金だったとされる。ローマにはいまも、彼が建てさせた巨大なカラカラ浴場の遺跡が残っている。

勅令の意味は、帝国が東西に分かれ(ローマ帝国の東西分割)、西が滅んだ後に、かえってはっきりした。東ローマ帝国の人びとは、ギリシア語を話しながら、15世紀に国が滅ぶまで自らを「ローマ人」と呼び続けた。ローマ人であることは、一つの都市に属することから、一つの国家と法に属することに変わっていた。その転換点の一つが212年だった。

出典(2)

塩野七生 『ローマ人の物語』XI 終わりの始まり
エドワード・ギボン 『ローマ帝国衰亡史』第6章

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