概要
本願寺の門徒(一向宗)が、守護の富樫政親を高尾城に攻めて自害させた。以後、約90年、加賀は「百姓の持ちたる国」と呼ばれた。実際には、本願寺の坊主と、有力な門徒の土豪が合議で治めた。惣村の寄合と、講の組織が、そのまま政治の単位になった。1580年、織田信長に降伏するまで続いた。日本で唯一、宗教の共同体が一国を治めた例。
場所
36.56°N 136.66°E · 石川県
本文
浄土真宗(一向宗)。親鸞の教え。「南無阿弥陀仏」を称えれば、悪人でも救われる。8代の蓮如(1415〜99年)が、平易な仮名の手紙(御文)で北陸と東海に広め、講(信徒の集まり)を組織した。門徒は「同朋(同じ仲間)」として、身分を越えて結びついた。
加賀(石川県南部)。守護は富樫氏。1474年、富樫家の兄弟(政親と幸千代)の争いに、門徒が政親の側について、幸千代を追い出した。門徒の力が、守護を決めた。
政親は、力を得た門徒を恐れて、弾圧に転じた。門徒は蓮如に助けを求めたが、蓮如は「守護に逆らうな」と諫めた(彼は一貫して、武力の蜂起に反対だった)。
1488年6月。門徒20万(誇張だろうが、数万)が、政親の高尾城を囲んだ。近隣の国人(在地の武士)も加わった。政親は自害した。
以後、約90年。加賀に守護はいたが(富樫の傍系を名目に立てた)、実際の政治は、本願寺の加賀三か寺(松岡寺、光教寺、蓮綱寺。蓮如の子たち)の坊主と、有力な門徒の土豪と、講の代表の合議で行われた。年貢は本願寺へ。
『実悟記拾遺』に、この状態を評した有名な言葉がある。「近年は百姓の持ちたる国の様に成り行き候」。
内実。「百姓」が平等に治めたのではない。加賀の門徒の中にも階層があり、土豪と有力農民が指導した。本願寺の中央(大坂の石山)と、加賀の現地の指導者の間で、しばしば対立した(1531年の享禄の錯乱で、加賀三か寺が本願寺本山に討たれた)。それでも、守護大名でも幕府でもない主体が、一つの国を90年、運営した。
同じ時期の他の例。1485〜93年、山城国一揆(南山城の国人と農民が、畠山の両軍を追い出して、8年、自治を行った)。1532年、法華一揆(京都の日蓮宗の町衆が、一向一揆と対抗し、京の市政を握った。1536年、比叡山に焼かれた)。
戦国の日本には、大名でない政治の単位が、いくつも生まれていた。惣村(村の寄合が、掟を作り、用水と山を管理し、年貢を請け負い、時に武装した)。都市の自治(堺の会合衆、博多の年行司、京の町衆)。そして一向一揆。
終わり。1570年から、石山合戦。信長と本願寺が10年戦った。1575年、越前の一向一揆が信長に潰された(数万人が殺された)。1580年、本願寺の顕如が石山を退去した。同じ年、柴田勝家が加賀を平定した。1582年までに、加賀の一揆勢は掃討された。
秀吉の刀狩(1588年)と、身分統制令が、村から武装を取り上げた。「百姓の持ちたる国」は、二度と現れなかった。