できごと

加賀の一向一揆

The Ikkō ikki of Kaga
AD1488年
重要度 5
シベリアの諸集団明チベットパガン朝アユタヤ朝日本朝鮮王朝スコータイ朝大越大越アイヌモシリAD1488年加賀(金沢御堂)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1488年の版図を描いています(11勢力)。

概要

本願寺の門徒(一向宗)が、守護の富樫政親を高尾城に攻めて自害させた。以後、約90年、加賀は「百姓の持ちたる国」と呼ばれた。実際には、本願寺の坊主と、有力な門徒の土豪が合議で治めた。惣村の寄合と、講の組織が、そのまま政治の単位になった。1580年、織田信長に降伏するまで続いた。日本で唯一、宗教の共同体が一国を治めた例。

場所

加賀(金沢御堂)
36.56°N 136.66°E · 石川県

本文

鎌倉時代の初めに親鸞が説いた浄土真宗は、阿弥陀仏の救いを信じて念仏すれば、どんな人も、悪人でさえも救われると教えた。親鸞の死後しばらくは小さな教団にすぎなかった本願寺を、15世紀に一大勢力へ育てたのが、8代目の蓮如である。蓮如は、難しい漢文ではなく、平易な仮名まじりの手紙「御文」で教えを説き、それを門徒の集まりで読み聞かせさせた。村々には「講」と呼ばれる信徒の集まりが生まれ、農民も、商人も、武士も、身分の違いを越えて「同朋」として結びついた。教団の外の人々は、彼らを一向宗と呼んだ。

京都東山の大谷にあった本願寺を比叡山の衆徒に破壊された後、1471年、蓮如は越前の北端、加賀との国境に近い吉崎に坊舎を構えた(蓮如の吉崎御坊)。吉崎には北陸一帯から門徒が押し寄せ、たちまち大きな寺内町ができた。加賀でも門徒は急速に増えた。ちょうどその頃、京都では応仁の乱が続き、地方の守護の権威は揺らいでいた。

応仁の乱に関わる図版:Onin-War-1467-1477-The-Battle-of-Onin-by-Utagawa-Yoshitora
応仁の乱Wikimedia Commons Utagawa Yoshitora · Public domain

加賀の守護は富樫氏だった。1474年、富樫政親と弟の幸千代が家督を争うと、本願寺の門徒は政親の側につき、敵対する真宗の別の派の門徒と組んだ幸千代を追い出した。守護の座を決めたのは、門徒の力だった。ところが、政親は、力をつけた門徒を恐れて抑えにかかった。門徒は抵抗し、蓮如の制止も効かなくなった。蓮如は一貫して、守護や地頭を敬い、年貢をきちんと納めよと説き、武力で立ち上がることを戒めていた。1475年、蓮如は混乱を避けるように吉崎を去った。

1488年の夏、加賀の門徒と、政親に不満を持つ国人と呼ばれる在地の武士たちが、政親の居城である高尾城を囲んだ。その数を20万と記す史料もあるが、誇張だろう。それでも数万に及んだと考えられる。政親は幕府に援軍を求めたが間に合わず、6月、城は落ち、政親は自害した。一揆の側は、富樫一族の老人泰高を名目上の守護に立てた。

蓮如上人の銅像
蓮如上人の銅像Wikimedia Commons 投稿者が撮影 · Public domain

それからおよそ90年にわたって、加賀は本願寺の門徒が実質的に治める国になった。蓮如の十男の実悟が書き残した記録には、近年は百姓の持ちたる国のようになっている、という有名な一節がある。ここでいう百姓は、今の農民という意味より広く、武士でも公家でもない人々を指す言葉だった。国の政治は、蓮如の子たちが住職を務める加賀の三つの有力な寺と、門徒の中の有力な国人や土豪、そして村々の講や寄合の代表が合議して動かした。守護や荘園の領主に納められていた年貢の多くは、本願寺や門徒の組織に流れるようになった。

ただし、それは身分の差のない平等な自治ではなかった。門徒の中にも、土地と兵を持つ国人や土豪と、ふつうの農民との間には大きな差があり、国を動かしたのは前者だった。また、加賀の門徒の指導者たちと、本山の本願寺との間には、たびたび争いが起きた。1531年には、加賀の三つの寺の一派と、本山の側に立つ一派との間で内戦が起き(享禄の錯乱)、三つの寺の側が敗れた。その後、本願寺は加賀の支配を強め、のちに金沢に坊舎を置いて国を治める拠点にした。それでも、守護大名でも幕府でもない宗教の共同体が、一つの国を長く治め続けたことは、日本の歴史の中で他にほとんど例がない。

こうしたことは、加賀だけで起きたのではない。応仁の乱の後、畿内では、山城の南部の国人と農民が、争う畠山氏の両軍を国から退かせ、8年にわたって自分たちで国を治めた(山城国一揆)。京都では日蓮宗を信じる町衆が結束し、一時は町の自治を握った。村では、寄合で掟を定め、用水や山を共同で管理し、年貢をまとめて請け負い、時には武器を取る「惣村」が各地に生まれていた。堺や博多のように、豪商たちが町を治める港町もあった。戦国時代の日本には、大名とは違う形の政治の単位が、いくつも芽生えていたのである。

それを一つずつ押しつぶしていったのが、天下統一を進める大名たちだった。1570年、織田信長と大坂の石山本願寺との10年に及ぶ戦いが始まった(石山合戦)。本願寺の宗主顕如は各地の門徒に信長と戦うよう呼びかけ、伊勢の長島や越前でも一揆が立ち上がった。信長はこれに容赦なく臨んだ。1574年の長島、1575年の越前で、一揆に加わった男女数万人が殺されたと伝えられる。1580年、顕如は朝廷の仲立ちで信長と和睦し、石山を明け渡した。同じ年、信長の重臣柴田勝家の軍が金沢の坊舎を攻め落とし、加賀は織田の支配下に入った。山間部に立てこもった門徒の抵抗も、1582年までに鎮められた。

石山合戦に関わる図版:Utagawa Yoshifuji - The Battle of Ishiyama Hongan-ji
石山合戦Wikimedia Commons Utagawa Yoshifuji · Public domain

その後、天下を統一した豊臣秀吉は1588年に刀狩令を出し、村々から武器を取り上げ、武士と百姓の身分をはっきり分けた。村が武装し、寺と講が国を動かす時代は終わり、「百姓の持ちたる国」が再び現れることはなかった。加賀はやがて前田氏の領地となり、江戸時代を通じて百万石の大藩として知られることになる。一方で、北陸は今も浄土真宗の信仰が厚い土地として知られている。

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