機密指定
概要
軍事の秘密は古くからあるが、文書に等級を付けて管理する制度は、二つの大戦を経て整った。1951年、トルーマンが大統領令で、平時の行政機関全体に、極秘、秘、部外秘の三段階を適用した。指定できる人と、解除の手続きも定めた。批判はすぐに出た。都合の悪い情報を隠すのに使える。過剰な指定が常態化し、指定件数は年に数千万に達する。ある元高官は、機密の九割は公開してよいものだと述べた。秘密の量が増えるほど、守るべきものが埋もれる。
場所
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国
本文
軍事の秘密は古くからある。城の図面も、暗号も、進軍の道筋も、敵に知られてはならなかった。だが、文書の一枚一枚に秘密の等級を付け、誰が読めるかを制度として管理するようになったのは、20世紀の二つの大戦を経てからのことである。
第一次世界大戦のさなか、イギリスやフランスの軍は文書に秘密の印を押して扱いを分けるようになり、アメリカの軍もそれにならった。1917年には、国防の情報を敵に渡すことを罰するスパイ活動法が作られる。第二次世界大戦では、秘密の規模が一変した。原子爆弾を作るマンハッタン計画は、仕事を細かい区画に分け、「知る必要のある者だけが知る」という原則で運営された。各地の工場で働く人々の多くは、自分が何を作っているのかを知らされていなかった。ロスアラモスの研究所でも部門をまたいだ話し合いは制限されていたが、所長のロバート・オッペンハイマーは、科学者は話し合わなければ仕事にならないと主張し、研究所の中での議論を認めさせた。

戦争が終わると、秘密の管理は平時にも持ち越された。物語「冷戦」が始まり、ソ連に原爆の情報が漏れていたことも明らかになっていた。1951年9月24日、ハリー・トルーマン大統領は大統領令10290号に署名し、機密の等級を平時の行政機関全体に当てはめた。それまで機密を扱っていたのは、主に軍と国務省だった。
等級は、漏れたときの損害の大きさで決まった。国家に極めて重大な損害を与えるものが「極秘」、重大な損害を与えるものが「秘」、損害を与えるものが「部外秘」である。当初はその下に「取扱注意」というもう一段があったが、1953年にアイゼンハワー大統領が廃止し、三段階になった。大統領令は、誰が指定できるのか、どう解除するのかも定めた。機密を扱う人には身元調査を経た資格が求められるようになり、その調査は、共産主義者を公職から締め出そうとしたマッカーシズムの時代と重なっていた。

批判はすぐに出た。とりわけ新聞社などの報道機関が強く反対した。この仕組みを使えば、行政は自分に都合の悪い情報を、国家の安全を理由に隠せる。軍事の秘密ではない単なる不都合が、機密になってしまう、という懸念である。
その懸念は、何度も現実になった。よく知られるのが1971年のペンタゴン・ペーパーズである。ヴェトナム戦争の経緯を国防総省が内部でまとめた研究で、約7000ページあり、「極秘」に指定されていた。だが中身の多くは軍事の機密というより、歴代の政権が戦争について国民に説明してきたことと、内部での判断との食い違いの記録だった。研究に加わったダニエル・エルズバーグが写しを新聞社に渡し、政府は掲載の差し止めを求めたが、最高裁はそれを認めなかった。

指定の数そのものも膨れ上がった。すでに機密の情報を含む文書は、それを引用しただけで自動的に機密になる。こうした派生的な指定が雪だるま式に増え、2000年代から2010年代にかけて、年間の指定の件数は数千万件にのぼった。機密を扱う資格を持つ人はアメリカ全体で数百万人に達し、その多くは政府の職員ではなく民間の請負会社の社員である。どれだけの機密がたまっているのか、総量は誰にも分からない。
1991年、レーガン政権で国家安全保障会議の事務局長を務めたロドニー・マクダニエルは、機密のうち正当な保護といえるのは1割ほどで、残りの多くは政治的に都合の悪いものを守るためだ、という趣旨のことを述べたとされ、繰り返し引用されている。2001年の9・11同時多発テロの後の調査委員会は、別の面から問題を指摘した。情報機関どうしが手持ちの情報を共有しなかったことが、攻撃を防げなかった一因だというのである。知る必要のある者だけが知る、という原則が、ここでは逆に働いた。

秘密を減らそうとする動きもあった。1966年の情報自由法は、行政の文書は原則として公開する、と定めた。ただし九つの例外があり、その第一が国防と外交の機密である。だから機密に指定されていれば、それがそのまま公開を断る理由になる。1995年、クリントン大統領は大統領令12958号で、25年たった機密文書は原則として自動的に解除すると定め、大量の文書が公開された。だがその後、例外は少しずつ広げられていった。さらに、機密ではないが公開もしない、という中間の区分も作られ、そこには解除の期限や明確な決まりがないことが多い。
内部から秘密を外へ出す人も、繰り返し現れた。1971年のエルズバーグ、2010年に外交公電や戦場の記録を流したチェルシー・マニング、2013年に情報機関による大規模な通信の監視を明かしたエドワード・スノーデンである。スノーデンは政府の職員ではなく、請負会社の社員として機密に触れていた。そのたびに、これは公益のための告発なのか、それとも犯罪なのかが争われる。アメリカのスパイ活動法には、公益のためだったことを弁明として認める定めがない。そのため法廷で「なぜ明かしたのか」を十分に主張できないことが、批判され続けている。

守るべき秘密は確かにある。兵器の設計図や、協力者の名前が漏れれば、人が死ぬ。だが、秘密の量が増えるほど、本当に守るべきものはその中に埋もれていく。トルーマンが等級を平時の役所全体に広げてから70年あまり、この矛盾は形を変えながら続いている。30年後には誰でも当たり前に読める文書が、いまは読めない。何を秘密にし、いつ明かすのかを誰が決めるのか、という問いは、民主政治の根もとに居座ったままである。