ルイジアナ買収
概要
1500万ドルで214万平方キロ。1エーカー3セント。アメリカの国土が一夜で倍になった。
場所
29.95°N -90.07°E · アメリカ合衆国・ルイジアナ州
本文
18世紀の末、北アメリカの地図は今とまったく違っていた。独立したばかりのアメリカは、大西洋岸からミシシッピ川の東までの国で、川の西の広大な土地はルイジアナと呼ばれていた。もとはフランスの植民地だったが、七年戦争の後の1762年にスペインに譲られていた。
アメリカにとって大切なのは、ミシシッピ川の河口の港ニューオーリンズだった。ケンタッキーやテネシーなど西部に移り住んだ農民たちは、小麦やタバコや豚肉を、平底船でミシシッピ川を下って運び、ニューオーリンズから海へ積み出していた。1795年の条約で、アメリカはこの港で荷を下ろし、預ける権利を認められていた。

1800年、スペインは秘密の条約で、ルイジアナをナポレオンのフランスに返した。ナポレオン・ボナパルトは、カリブ海の砂糖の島サン・ドマング(今のハイチ)と、その食料を供給するルイジアナとを結んだ、新しいアメリカ帝国を思い描いていた。弱いスペインならまだしも、強大なフランスが河口を握ることに、大統領トマス・ジェファソンは強い危機感を抱いた。1802年にはスペインの役人がアメリカの預け入れの権利を停止し、西部の住民は怒った。
ジェファソンは、駐仏公使ロバート・リヴィングストンに加えて、ジェームズ・モンローをパリへ送り、ニューオーリンズとその周辺だけを買い取る交渉をさせた。ジェファソンが示した上限は、1000万ドルほどだった。ところが1803年4月、フランスの財務大臣バルベ・マルボワは、思いがけない提案をした。ルイジアナ全体を買う気はないか、と。
ナポレオンの構想は、カリブ海で崩れていた。サン・ドマングでは、黒人奴隷たちの反乱から始まった革命が続いていた(ハイチ革命)。ナポレオンが義弟ルクレールに率いさせて送り込んだ大軍は、指導者トゥサン・ルヴェルチュールを捕らえはしたが、激しい抵抗と黄熱病で壊滅した。サン・ドマングを失えば、ルイジアナを持つ意味は薄れる。しかも、イギリスとの戦争の再開が迫っていた。海を支配するイギリスに奪われる前に、売って戦費に換えるほうがよい。

4月30日、条約が結ばれた。代金は1500万ドルで、その一部はフランスに対するアメリカ市民の債権を肩代わりする形で支払われた。面積はおよそ214万平方キロで、1エーカーあたり3セントほどになる。アメリカの国土は、ほぼ倍になった。代金の大部分は、イギリスとオランダの銀行が引き受けた債券でまかなわれた。イギリスの銀行が、イギリスと戦う国の資金を用立てたことになる。
ジェファソンは悩んだ。彼は憲法を厳格に読むべきだと主張してきた人物で、憲法には、連邦政府が外国の領土を買い取ってよいとはどこにも書かれていなかった。憲法を改正することも考えたが、ナポレオンの気が変わるのを恐れ、条約の締結という権限を使って押し通した。上院は10月に条約を承認し、12月20日、ニューオーリンズでフランスの旗が降ろされ、アメリカの旗が揚げられた。

買い取った土地がどこまでなのか、条約ははっきり定めていなかった。ジェファソンは、メリウェザー・ルイスとウィリアム・クラークに探検隊を率いさせ、1804年から1806年にかけてミズーリ川をさかのぼり、ロッキー山脈を越えて太平洋岸まで旅をさせた。
そして、その土地には人が住んでいた。ミシシッピ川の西には、オセージ、スー、シャイアン、ポーニーなど多くの先住民の国々があった。フランスが売ったのは、実際にはヨーロッパの国々の間で通用する、その土地への権利の主張にすぎなかった。アメリカはこのあと、条約と戦争によって先住民の土地を一つずつ手に入れていく(涙の道)。新しい領土に奴隷制を認めるかどうかは、1820年のミズーリ妥協をはじめとして、アメリカを南北に割る争いの火種にもなった。