人物

アフマド・グラーニュ

Ahmad ibn Ibrahim al-Ghazi
AD1506年頃 – AD1543年(享年37・推定)
アダル・スルタン国重要度 3

概要

火器を導入してエチオピア高原の大半を征服した。ポルトガルの介入で押し返され、戦死する。

関わったできごと(1)

アフマド・グラーニュのエチオピア侵攻AD1529年 · 総指揮

本文

アフマド・イブン・イブラーヒーム・アル=ガーズィーは、1506年ごろ、アフリカの角の低地に生まれたとされる。生まれた場所も家系もはっきりしない。エチオピア側では「グラーニュ」の名で呼ばれる。アムハラ語で「左利き」という意味である。ソマリ語では同じ意味の「グレイ」と呼ばれる。

アフマド・グラーニュの肖像
アフマド・グラーニュの肖像Wikimedia Commons Ugaas Raage · CC0

エチオピア高原には、キリスト教を奉じるソロモン朝の帝国があった(エチオピア・ソロモン朝の成立)。その東、紅海とアデン湾に面した低地には、ハラールを中心とするイスラームのアダル・スルタン国があり、ソマリ人やアファル人が暮らしていた。両者は何世紀も戦いと交易を繰り返し、アダルは帝国に貢ぎ物を納めることが多かった。アフマドが仕えた有力者マフフーズは、高原に何度も攻め込んだ末、1517年に皇帝の軍に討たれている。アフマドはその娘バティ・デル・ワンバラを妻とした。

アフマドは軍人として頭角を現し、内紛で揺れるアダルの実権を握った。名目上のスルタンを立てたまま、自らは「イマーム」を名乗り、貢ぎ物をやめ、聖戦を呼びかけた。紅海の向こう側では、1517年にオスマン帝国がエジプトを征服し(セリム1世のエジプト征服)、紅海に勢力を伸ばしていた。アフマドはオスマンから火縄銃と大砲を手に入れたとされる。

セリム1世のエジプト征服に関わる図版:The Ottoman-Mamluk war and the conquest of Mecca and Medina. Printed in Basel, dated 1518
セリム1世のエジプト征服Wikimedia Commons Asherbooks.com · Public domain

1529年、シンブラ・クーレの戦いで、アフマドは皇帝レブナ・デンゲルの大軍を破った。そこから10年あまり、軍は高原の奥へ奥へと進んだ(アフマド・グラーニュのエチオピア侵攻)。高原側は剣と槍と弓が主力で、火器はほとんど持たなかった。もっとも、初めのうちはアダルの側も火器の数は限られ、勝利を支えたのは、信仰で結ばれた兵の士気と、高原の諸侯の離反だったとも指摘される。

占領は徹底していた。各地の教会と修道院が焼かれ、財宝が奪われた。古都アクスムの教会も壊されたと伝えられる。多くの写本が失われ、その被害は、エチオピアの歴史記録の断絶としていまも残る。住民の中には改宗を強いられた者も少なくなかった。こうした経過は、アフマドに従った書記シハーブッディーンが『アビシニア征服』というアラビア語の年代記に書き残しており、勝者の側から見た戦いの記録として貴重である。

若きアフマド・イブン・イブラーヒームが力を示す場面の挿絵
若きアフマド・イブン・イブラーヒームが力を示す場面の挿絵Wikimedia Commons Manuel João Ramos, Isabel Boavida · CC0

皇帝レブナ・デンゲルは山中を逃げ回り、ヨーロッパのキリスト教国に助けを求めた。返事が来る前の1540年、山上の修道院で死んだ。跡を継いだのは息子のガラウデウォスである。

1541年、紅海の港マッサワに、ポルトガルの銃兵400人ほどが上陸した。インドのゴアから来た艦隊が送り出したもので、指揮官はヴァスコ・ダ・ガマの息子クリストヴァン・ダ・ガマだった。アフマドもオスマンに援軍を頼み、数百人のトルコ人銃兵を得た。1542年8月の戦いでポルトガル軍は敗れ、捕らえられたクリストヴァンは処刑された。だが生き残った兵は、高原の皇帝ガラウデウォスの軍に加わった。

イマーム・アフマドを描いた20世紀初頭の挿絵
イマーム・アフマドを描いた20世紀初頭の挿絵Wikimedia Commons Geoffrey C. Last · Public domain

1543年2月、タナ湖の東のワイナ・ダガで決戦が行われた。アフマドは銃弾を受けて倒れた。ポルトガル兵の撃った弾だったとされる。指導者を失った軍はたちまち崩れ、高原の占領は終わった。アフマドは30代後半だった。

戦いは終わらなかった。未亡人バティ・デル・ワンバラは、夫の仇を討つことを条件に、アダルの武将ヌール・イブン・ムジャーヒドと再婚したと伝えられる。ヌールは1559年、皇帝ガラウデウォスを討ち取った。だが長い戦いで両者とも疲れ果て、その空白に南から牧畜民のオロモが大きく広がっていった。

マスケット銃と大砲を持つアフマド軍の兵士
マスケット銃と大砲を持つアフマド軍の兵士Wikimedia Commons Geoffrey Last, Richard Pankhurst · CC0

この戦いは、紅海をはさんでオスマン帝国とポルトガルがぶつかった代理戦争でもあった(ポルトガル帝国)。ポルトガルの来援をきっかけに、のちにイエズス会の宣教師が高原に入り、皇帝をカトリックに改宗させようとして新たな争いを生む。アフマドの名は、エチオピアでは国を焼いた侵略者として、ソマリアでは異教徒と戦った英雄として、まったく違う形で記憶されている。

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