マーストリヒト条約
概要
ベルリンの壁の崩壊とドイツ統一の直後。ドイツを、通貨を手放させることでヨーロッパに縛る、というミッテランの計算と、コールの決断。欧州共同体(EC)が欧州連合(EU)になった。単一通貨、共通の外交と安全保障、司法と内務の協力。EU市民権。デンマークが国民投票で一度否決し、条件をつけて通した。2002年、ユーロの紙幣と硬貨が12か国で流通した。
場所
50.85°N 5.69°E · オランダ
本文
第二次世界大戦のあと、西ヨーロッパの国々は、二度と戦争をしないための仕組みを少しずつ積み上げてきた。1951年の石炭と鉄鋼の共同体、1957年のローマ条約による経済共同体。関税をなくし、農業政策を共通にし、1980年代には人・物・資本・サービスが自由に行き来する単一市場の完成を目指した。だがそれはあくまで経済の共同体で、通貨も外交も、それぞれの国が握っていた。それを一気に政治の連合へと押し上げたのが、1989年から90年にかけての激動だった。
1989年11月9日、ベルリンの壁が崩れた(ベルリンの壁の崩壊)。西ドイツのコール首相は、まもなく東西ドイツの統一への道筋を示し、1990年10月3日、統一が実現する(ドイツの再統一)。人口8000万、ヨーロッパ最大の経済を持つ国が、大陸の中央に再び現れることになった。イギリスのマーガレット・サッチャー首相は統一に強い警戒を隠さず、フランスのミッテラン大統領も不安を抱いた。

ミッテランが求めたのは、強くなるドイツをヨーロッパの枠の中にしっかりと結びつけておくことだった。とりわけ、ヨーロッパの金融を事実上取り仕切っていたドイツ・マルクと、ドイツ連邦銀行の力を、共通の通貨と共通の中央銀行に溶け込ませることである。フランスが統一を認める見返りに、ドイツがマルクを手放して通貨統合に進むことを受け入れた、という「取引」があったとよく言われる。ただ、通貨統合の計画はそれ以前から動いており、どこまでが明示の取引だったのかについては、歴史家の間でも見方が分かれる。コール自身、ドイツの統一とヨーロッパの統合は一枚のコインの両面だと語り、ドイツをヨーロッパの中に埋め込むことを自らの信念としていた。
1991年12月9日から10日にかけて、オランダ南端の町マーストリヒトで、欧州共同体12か国の首脳会議が開かれた。ドイツとベルギーの国境に近い、ヨーロッパの十字路のような町である。徹夜の交渉の末に条約の内容が合意され、1992年2月7日、各国の外相と財務相が調印した。正式の名は「欧州連合条約」である。

条約は、三本の柱からなる新しい建物として「欧州連合(EU)」を作った。第一の柱は、従来の欧州共同体で、単一市場に加えて、通貨の統合がここに組み込まれた。第二の柱は共通の外交・安全保障政策、第三の柱は司法と内務の協力である。第一の柱では加盟国が主権の一部を共同体の機関に委ね、多数決で決める範囲も広がったが、第二・第三の柱は各国政府どうしの協力にとどまった。
中心は通貨の統合だった。三つの段階を経て、遅くとも1999年までに単一の通貨を導入すると定めた。参加するには、厳しい条件(収斂基準)を満たさなければならない。財政赤字は国内総生産の3パーセント以内、政府の債務は60パーセント以内、物価の上昇率、長期金利、為替相場も安定していること。のちに、イタリアやベルギーは債務が国内総生産を上回っていたにもかかわらず、減少の傾向にあるとして参加を認められた。2001年に加わったギリシャは、のちに財政の統計を実際より良く見せていたことが明らかになる。

条約はまた、「EU市民権」という考え方を打ち出した。加盟国の国民は同時にEUの市民でもあり、ほかの加盟国に自由に移り住み、働き、住んでいる国の地方選挙と欧州議会の選挙で投票し、立候補できる。EUの外で自国の大使館がない場合には、ほかの加盟国の在外公館の保護を受けられる。同時に、決定はできるだけ市民に近いところで行い、EUが動くのは各国では十分に達成できない場合に限る、という「補完性の原則」も書き込まれた。
だが、各国の首脳が合意した統合の構想は、国民の支持を当然には得られなかった。1992年6月2日、デンマークの国民投票は、50.7パーセント対49.3パーセントの僅差で批准を否決した。ヨーロッパに衝撃が走った。デンマークは同年12月、単一通貨、防衛、司法・内務、市民権の4つの分野で適用の除外を認められ、1993年5月の再投票で批准した。フランスでは1992年9月の国民投票で、賛成51パーセント余りというきわどい差で批准が決まり、「小さな賛成」と呼ばれた。同じ9月、通貨の投機的な売りでイギリスのポンドとイタリアのリラが欧州の為替相場の仕組みから脱落し、通貨統合の前途に暗雲が垂れこめた。イギリスは、単一通貨と社会政策の取り決めに加わらない権利を得て、議会での激しい争いの末に批准した。ドイツでは条約が国の主権を損なうとして憲法裁判所に訴えが起こされ、1993年10月に合憲の判断が出るまで批准が止まった。
1993年11月1日、条約は発効し、欧州連合が誕生した。通貨統合は予定どおり進み、1998年にフランクフルトに欧州中央銀行が設けられ、1999年1月1日、11か国が為替相場を固定して、帳簿の上での共通通貨ユーロを導入した。2002年1月1日、ユーロの紙幣と硬貨が12か国で流通を始め、3億人がそれまでの通貨と別れた(ユーロの紙幣と硬貨)。国境での検問をなくすシェンゲン協定(シェンゲン協定)も、もとは条約の外で始まったが、のちにEUの枠に組み込まれた。
EUはその後、加盟国を大きく増やした。1995年にオーストリア、スウェーデン、フィンランドが加わり、2004年には冷戦期に東側にあった中東欧の国々を中心に10か国が一度に加盟した。条約は何度も改正され、2009年のリスボン条約で三本柱の構造は一つにまとめられた。
一方で、マーストリヒトが作った仕組みの弱点もあらわになった。通貨は一つにしながら、財政はそれぞれの国に残した。2009年に始まるユーロ危機では、ギリシャをはじめ南欧の国々が借金の返済に行き詰まり、豊かな北の国々との間で深い亀裂が生まれた。国民から遠いところで物事が決まるという不満は、各地で反EUの政治勢力を育てた。2016年、イギリスは国民投票でEUからの離脱を選び、2020年に実際に離脱した(ブレグジット)。マーストリヒトという町の名は、いまもヨーロッパの統合の希望と、その難しさの両方を思い起こさせる言葉になっている。