できごと

おかげ参り

Okage-mairi pilgrimages
AD1830年
重要度 4
おかげ参りに関わる図版:Ando hiroshige miyakawanowatashi
Ando hiroshige miyakawanowatashi Wikimedia Commons Utagawa Hiroshige · Public domain

概要

60年ほどの周期で、何百万人もが、突然、伊勢神宮へ歩き出した。1705年に362万人、1771年に200万人、1830年に486万人(当時の人口の6分の1)。奉公人が主人に無断で、子供が親に黙って出る(「抜け参り」)。沿道の人が食事と草鞋と宿を無償で提供した(施行)。柄杓一本を持って歩けば、たどり着けた。祭りと、旅行と、日常からの逸脱が、一度に起きた。1867年の「ええじゃないか」へ。

場所

伊勢神宮
34.45°N 136.72°E · 三重県

本文

江戸時代の人々にとって、伊勢神宮への参詣は一生に一度はしたい旅だった。そう思わせるしくみもあった。伊勢には「御師(おし、おんし)」と呼ばれる神職がいて、全国を回って神宮のお札を配り、村ごとに「伊勢講」を作らせた。講の仲間は毎年少しずつお金を積み立て、くじで選ばれた者が代表として伊勢へ行く。着けば御師の屋敷に泊まり、ごちそうを食べ、神楽を見て、参拝をすませる。信仰の旅であると同時に、ふだん村から出られない人々にとっての大きな観光でもあった。

その伊勢参りが、ある年に突然、爆発的に増えることがあった。これを「おかげ参り」と呼ぶ。神のおかげを受けに行く、という意味である。とくに大きなものが、およそ60年おきに3回起きた。1705年(宝永2年)、1771年(明和8年)、1830年(文政13年)である。宝永のときは50日ほどのあいだに362万人が参ったと、のちに本居宣長が随筆に書き留めている。明和のときは200万人ほど、文政のときは数か月で400万人を超え、486万人とする記録もある。当時の日本の人口は3000万人ほどだったから、文政のときには6人に1人ほどが伊勢へ向かった計算になる。

「豊饒御蔭参之図」に描かれるお札降下の様子。
「豊饒御蔭参之図」に描かれるお札降下の様子。Wikimedia Commons 歌川芳幾 · Public domain

始まりはたいてい、噂だった。どこそこの村に神宮のお札が空から降った、という話が広まると、人々は仕事を放り出して歩き出した。文政のおかげ参りは、四国の阿波で寺子屋の子どもたちが連れ立って伊勢へ向かったのが始まりと伝えられる。行列はふくれあがりながら街道を進み、近畿一円から東海、さらに遠くへと広がっていった。

おかげ参りの大きな特徴が「抜け参り」である。奉公人が主人に断らず、子どもが親に黙って、妻が夫に告げずに、家を抜け出して伊勢へ向かう。ふだんなら許されない勝手だが、伊勢参りに限っては、帰ってきた者を咎めないのがならわしだった。主人の側も、神罰を恐れて、あるいは世間の目を気にして、強く叱ることはできなかった。

参宮者が御師の手代と落ち合う様子。「伊勢参宮名所図会」より。
参宮者が御師の手代と落ち合う様子。「伊勢参宮名所図会」より。Wikimedia Commons 秋里離島・秦石田(文)、蔀関月・西村中和(絵) · Public domain

お金を持たずに出た人々が、どうやって何百キロも歩けたのか。支えたのが「施行(せぎょう)」である。街道沿いの裕福な商人や村人が、参詣者に握り飯や粥、草鞋、手ぬぐいを無料で配り、宿を貸し、渡し舟をただで渡した。施す側にとっても、それは神への奉仕であり、功徳を積むことだった。参詣者は柄杓を一本持って歩き、それを差し出して施しを受けた。柄杓は、おかげ参りの者であることのしるしでもあった。

五街道と宿場が整えられ、宿場がつながっていたことも、これほどの人の移動を支えた。ふだんの旅には関所の通行手形が要ったが、伊勢参りの名目ならば比較的たやすく出してもらえた。おかげ参りの年には、手形を持たない者まで黙認されることがあった。のちの『東海道中膝栗毛』が描く伊勢への道中は、こうした旅の気分が町人の間で広く共有されていたことを示している。

「外宮北御門杓積たる図」
「外宮北御門杓積たる図」Wikimedia Commons 箕輪在六 · Public domain

人が群れをなして歩けば、道中は祭りになる。揃いの衣装で踊りながら進む集団もあり、男が女の着物を着たり、ふだんの身分の決まりを崩したりする姿も見られた。飼い主の代わりにお札を首に下げて伊勢まで行った犬の話まで伝わっている。一方で、混雑の中で行き倒れる者や、迷子になる子ども、施しを当て込んだ物乞いも出た。幕府や藩は騒ぎの広がりを警戒したが、相手が伊勢の神とあっては、正面から止めることはできなかった。

おかげ参りは、なぜ起きたのか。豊作の年に余裕ができたからだという見方もあれば、不作や世の閉塞感から逃れようとしたのだという見方もある。日々の決まりから一度だけ抜け出すことが、神への信仰という名目で許された。その解放の気分が、噂をきっかけに連鎖したと考えられている。

文政のおかげ参りから37年後の1867年、幕府が倒れる直前に、東海道や近畿の町々でお札が降ったという騒ぎが再び起き、人々が「ええじゃないか」と囃しながら踊り狂った(ええじゃないか)。60年の周期を待たずに起きたこの騒ぎは、おかげ参りの形を受け継ぎながら、幕末の世の揺らぎを映していたとされる。明治になると、御師の制度は廃止され、伊勢参りは鉄道を使う団体旅行へと形を変えていく。

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