六月民主抗争
概要
ソウル大生朴鍾哲が拷問で死に、延世大生李韓烈が催涙弾で死んだ。6月、全国で数百万。ソウル五輪の前年。与党の盧泰愚が大統領直選を受け入れた。「6・29宣言」。憲法が変わり、それ以来大統領は国民が選ぶ。
場所
37.57°N 126.98°E · 大韓民国
本文
1987年1月、ソウル大学の学生、朴鍾哲が、警察の取り調べ中に死んだ。治安当局は「机を叩いたら、うっと言って倒れた」と発表したが、まもなく水責めの拷問による死だったことが明るみに出る。韓国は、1980年の光州民主化運動を鎮圧して権力を握った全斗煥の軍事政権のもとにあった。大統領は国民の直接の投票ではなく、政権が抑えやすい選挙人団によって選ばれていた。大統領の直接選挙は、1972年に朴正熙が維新憲法を作ったときに廃止されて以来、行われていなかった。
野党と学生は、大統領を国民が直接選ぶ憲法への改正を求めていた。ところが4月13日、全斗煥は憲法の改正の議論を打ち切り、いまの憲法のままで次の大統領を選ぶと宣言する。5月には、カトリックの司祭団が、警察が朴鍾哲の拷問を隠すために事件をもみ消していたことを暴いた。人びとの怒りは、政権の嘘そのものに向かった。
事件を最初に報じたのも新聞だった。政権は報道を細かく統制していたが、記者たちは検察や病院の関係者を回って、拷問の事実を突き止めていった。カトリック教会や、仏教やプロテスタントの宗教者たちも、政権を公然と批判する側に立った。
6月9日、延世大学の前のデモで、学生の李韓烈が、警察の放った催涙弾を頭に受けて倒れた。血を流して友人に抱えられる写真が新聞に載り、抗議はさらに広がる。翌6月10日、与党は全斗煥の盟友の盧泰愚を次の大統領の候補に決めた。同じ日、野党と宗教界と市民の団体は全国で集会を開き、直接選挙の憲法を勝ち取ろうと叫んだ。その夜、警察に追われた学生たちはソウルの明洞聖堂に逃げ込んで立てこもり、教会は警察の突入を拒んだ。籠城は六日間続き、聖堂の前には連日市民が集まって、そこが抗議の拠点になった。
この時の抗議は、学生だけのものではなかった。昼休みや仕事帰りに、背広にネクタイ姿の会社員が通りに出て、デモの学生に拍手を送り、ともに歩いた。彼らは「ネクタイ部隊」と呼ばれた。商店主は学生に水や食べ物を差し入れ、催涙ガスから逃げる学生をかくまった。6月26日の「平和大行進」には、全国で百万人を超える人が加わったとされる。6月のあいだに、抗議に加わった人は延べで数百万にのぼる。
政権は追い詰められた。翌1988年には、ソウルでオリンピックが開かれることになっていた。軍を出して光州のように鎮めれば、オリンピックは危うくなり、世界の目も厳しい。アメリカも、武力による鎮圧に反対の意向を伝えていた。6月29日、盧泰愚は、大統領の直接選挙を受け入れ、野党の指導者金大中の赦免と政治の自由を回復するなどの八項目を発表した。「6・29宣言」である。
李韓烈は、宣言のあとの7月5日に息を引き取った。7月9日の葬儀には、ソウルだけで百万人を超える人が集まったと伝えられる。10月、国民投票で新しい憲法が承認された。大統領は国民の直接の投票で選ばれ、任期は五年で再選はできない。この憲法は、いまも韓国の憲法として使われている。
1987年12月の大統領選挙では、皮肉なことに、盧泰愚が当選した。野党の金泳三と金大中が候補を一本化できず、票が割れたためである。それでも、選挙で政権を選ぶという仕組みは根づいた。1992年には金泳三が文民の大統領となり、1997年には金大中が当選して、初めて選挙による与野党の政権交代が起きる。1990年代の半ば、全斗煥と盧泰愚はともに、光州での鎮圧と巨額の不正な資金の罪で裁かれ、有罪となった。のちに赦免されたが、かつての最高権力者が法廷に立った光景は、時代が変わったことを示した。軍事政権の時代から民主政治へ移るこの転換点は、韓国では「87年体制」の始まりと呼ばれている。