人身保護法
概要
「身体を差し出せ」。人を拘束している者に対し、その人を裁判所に連れて来て、拘束の理由を示せと命じる令状。中世から存在したが、国王が無視すれば効かなかった。1679年の法律が、期限と罰則と手続きを定めて実効性を与えた。理由を示せない拘束は違法である。アメリカ合衆国憲法は、反乱や侵略のとき以外はこれを停止できないと定めた。独裁が最初に手を付けるのは、たいていこの令状である。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
「ハビアス・コーパス」はラテン語で、「その身体を汝は持て」という意味である。中世イングランドの国王の裁判所が出す令状の書き出しの言葉が、そのまま令状の名前になった。この令状は、人を閉じ込めている者、たとえば監獄の長や役人に対して、裁判所が命じるものである。その人を法廷に連れて来い。そして、なぜ閉じ込めているのかを述べよ。示された理由が法にかなっていなければ、裁判所は釈放を命じる。
これは、閉じ込められた人が罪を犯したかどうかを裁く手続きではない。問うのは、閉じ込めることそのものが法にかなっているかどうか、ただそれだけである。だからこそ、どんな裁判よりも先に働く。誰かが人を捕らえて閉じ込めたとき、その理由を、独立した裁判官の前で言わせる。それが、この令状の役目だった。
令状は13世紀ごろから使われていた。もとは、訴訟の当事者を法廷に出頭させるための事務的な道具にすぎなかったが、しだいに、不当に捕らえられた人を救い出す手段として使われるようになる。1215年のマグナ・カルタの第39条は、自由人は同輩の合法的な裁判か国の法によるのでなければ、捕らえられも閉じ込められもしないと定めており、しばしばこの令状の精神の源として引かれる。

だが、令状には弱点があった。裁判所が令状を出しても、国王の側が「国王の命令によって」と答えれば、裁判所はそれ以上踏み込めなかった。1627年、チャールズ1世が議会の同意なしに国民に強制的な借金を課し、払うことを拒んだ5人の騎士を投獄した。騎士たちは人身保護令状を求めたが、拘束の理由として示されたのは「国王の特別の命令により」という一言だけだった。裁判所は保釈を認めなかった。理由を述べない拘束が、まかり通ったのである。翌1628年、議会は権利の請願をまとめ、理由を示さない拘束は違法だと国王に認めさせた。
その後のイングランドは、内乱と国王の処刑(清教徒革命と国王処刑)、共和政、そして王政復古と揺れ動いた。1641年には、国王の意のままに人を裁いてきた星室庁裁判所が廃止された。それでも抜け道は残っていた。裁判所が休みの期間には令状が出せない。国王の役人が囚人をスコットランドや海峡の島々、海外の領地に移してしまえば、令状が届かない。令状を無視した役人を罰する定めも無かった。

1679年、議会は人身保護法を作った。成立の背景には、国王チャールズ2世のカトリック寄りの姿勢をめぐる激しい政争があった。架空の「カトリック陰謀」の噂で国じゅうが騒然とする中、国王に対抗する議員たちが、恣意的な投獄から身を守る仕組みを固めようとしたのである。純粋な人権の理念だけから生まれた法ではなかった。貴族院での採決のときには、票を数える係が、ひどく太った議員を冗談で10人と数え、それで法案が通ったという逸話も伝わっている。真偽ははっきりしない。
この法律は、新しい原理を宣言したのではなかった。定めたのは、手続きと期限と罰則である。令状を受け取った者は、距離に応じて3日から最長20日のうちに、囚人を法廷に連れて来なければならない。裁判官は、裁判所の休みの期間でも令状を出さなければならず、拒めば重い罰金を科される。囚人をイングランドの外へ移すことは禁じられ、違反した役人は公職を失い、損害を償わなければならない。一度釈放された者を、同じ理由で再び閉じ込めることもできない。抜け道を一つひとつ塞いだことが、令状に本当の力を与えた。
この法律が守ったのは、刑事事件で捕らえられた人々だった。借金などの民事の理由で閉じ込められた人にまで広げられたのは、1816年のことである。また議会は、国が危ういと判断したとき、この法律の効力を止めることができた。実際、名誉革命と権利章典の直後の1689年、ジャコバイトの反乱が起きた1715年と1745年、フランス革命を恐れた1790年代、アイルランドの反乱の時期などに、たびたび停止されている。

海の向こうでも、この令状は受け継がれた。アメリカ合衆国憲法の制定は、人身保護令状の特権は、反乱や侵略のときに公共の安全のために必要な場合を除いて停止されない、と定めた。言論の自由などを定めた修正条項が加えられる前から、憲法の本文に書かれていた。建国者たちが、これをいちばん基本の保障の一つと考えていたことが分かる。
その停止をめぐって大きな衝突が起きたのが、南北戦争の始まりだった。1861年、エイブラハム・リンカーンは首都ワシントンへの道を守るため、自らの判断で一部の地域で令状を停止した。メリーランドで南部に味方したとして軍に捕らえられたジョン・メリーマンのために、最高裁判所長官ロジャー・トーニーが令状を出したが、軍は従わなかった。トーニーは、令状を停止する権限は議会にあり、大統領には無いと書いた。リンカーンは議会への教書で、一つの法を守るために、ほかのすべての法が執行されず政府そのものが崩れるのを見過ごすべきなのか、と問い返した。1863年、議会は大統領の停止を法律で追認した。

21世紀にも、この令状は試された。9・11同時多発テロの後、アメリカはキューバのグアンタナモ湾の基地に、テロに関わった疑いのある外国人を裁判にかけないまま閉じ込めた。基地はアメリカの本土の外にあり、アメリカの裁判所の令状は届かないというのが政府の立場だった。2004年、最高裁判所は、そこに閉じ込められた人々もアメリカの裁判所に申し立てができると判断した。議会が2006年の法律でその道を閉ざすと、2008年、最高裁判所は再びそれを憲法に反するとして退けた。憲法の人身保護の保障は、グアンタナモにも及ぶとされた。
裁判も、弁護人も、証拠のルールも、この令状の後に来る。まず、誰かが人を閉じ込めたとき、その理由を独立した第三者の前で言わせる。それが無ければ、人はただ消える。20世紀に人が消えた場所、ソ連の収容所、ナチス・ドイツの強制収容所、軍事政権下のアルゼンチンで子を奪われた母たちが広場に集まった国(五月広場の母たち)には、どこもこの令状が届かなかった。独裁がまず手を付けるのは、たいていこの令状である。