概要
ナポレオン戦争でパリを見た青年将校たちが、憲法と農奴解放を求めて、皇帝の空位に乗じて立った。ペテルブルクの元老院広場に3000の兵を並べて「コンスタンチンと憲法」を叫んだ(兵の多くは「憲法(コンスチトゥーツィヤ)」をコンスタンチンの妻の名だと思った、と伝える)。ニコライ1世は葡萄弾で潰した。5人が絞首刑(縄が3本切れて、二度吊るされた)、121人がシベリアへ。妻11人が地位を捨てて従った。
場所
59.94°N 30.30°E · ロシア
関わった人(1)
ニコライ1世AD1796年7月6日–AD1855年3月2日 · 潰した本文
1812年、ナポレオン。1813〜14年、ロシア軍がドイツとフランスへ。青年将校がパリを見た。憲法、議会、農奴のいない農村。帰って、自分の国を見た。「私たちは、ヨーロッパを解放して、自分の農奴の主人に戻った」。
秘密結社。1816年「救済同盟」、1818年「福祉同盟」、1821年に分裂して「北方結社」(ペテルブルク。ニキータ・ムラヴィヨフ。立憲君主制、連邦制)と「南方結社」(ウクライナの第2軍。パーヴェル・ペステリ。『ロシアの真理』。共和制、皇帝一族の処刑、土地の分配)。詩人(ルイレーエフ)、公爵(トルベツコイ、ヴォルコンスキー)、将軍の息子たち。プーシキンは友人が多く、事件のとき流刑中だった(「もし私がペテルブルクにいたら、私も広場にいた」と後で皇帝に言った)。
1825年11月19日、アレクサンドル1世がタガンログで急死した。子がない。弟コンスタンチン(ワルシャワ)が次のはずだが、貴賤結婚のため、秘密に継承権を放棄していた。文書は封印されていた。ペテルブルクはコンスタンチンに忠誠を誓い、コンスタンチンはニコライに譲ると言い、11日、宙に浮いた。12月14日(グレゴリオ暦26日)、ニコライへの改めての宣誓の日。
結社は決めた。宣誓を拒んで、兵を広場に出す。摂政会議を作らせて、憲法制定議会を。指導者にトルベツコイ公を選んだ。
朝、モスクワ連隊、擲弾兵連隊、近衛海兵隊。3000人。元老院広場、ピョートル大帝の騎馬像の前。四角い隊形。「コンスタンチンと憲法(コンスチトゥーツィヤ)」。兵の多くは、コンスチトゥーツィヤをコンスタンチンの妻の名だと思った、と伝える。
トルベツコイは来なかった。誰も命令を出さなかった。5時間、立っていた。ニコライは、初め説得を試みた。ペテルブルク総督ミロラードヴィチ将軍(ボロジノの英雄)が馬で近づいて説得し、カホフスキーに撃たれて死んだ。府主教が説得して、追い返された。
日が暮れ始めた。ニコライは砲を出した。「私は、治世の最初の日に、臣民の血を流さなければならないのか」。葡萄弾。四角い隊形が崩れ、兵はネヴァ川の氷の上へ逃げ、砲弾が氷を割った。死者は数百(公式は80人、実際は1200人という説も)。
12月29日、南で、チェルニゴフ連隊が立ち、1月3日に潰された。
裁判。579人が調べられ、289人が有罪。ニコライは自分で訊問した。5人(ペステリ、ルイレーエフ、ムラヴィヨフ=アポストル、ベストゥージェフ=リューミン、カホフスキー)が絞首刑。1826年7月13日、ペトロパヴロフスク要塞。3人の縄が切れて、落ちた。ムラヴィヨフ=アポストルが「哀れな国だ。人を吊るすことさえできない」と言った、と伝える。二度目で死んだ。121人がシベリアへ(重労働と流刑)。
妻たち。11人が、貴族の身分と財産と、都市に住む権利を捨てて、シベリアへ従った(法律で、戻ることも、子を連れることも許されなかった)。マリヤ・ヴォルコンスカヤ、エカチェリーナ・トルベツカヤ、ポリーナ・ゲーブル(フランス人の店員で、婚約者を追った)。ネクラーソフの詩『ロシアの女たち』。
1856年、アレクサンドル2世の即位の恩赦で、生き残った30人ほどが帰った。30年。
「デカブリスト(十二月党員)」。ロシアの革命運動は、ここから数える。レーニン「デカブリストがゲルツェンを目覚めさせた」。彼らは、農奴を持つ貴族で、農奴を解放しようとして、農奴に理解されなかった。