ヴァイマル憲法

概要
ベルリンは革命で危なくて、ゲーテとシラーの街で国民議会を開いた。20歳以上の男女の普通選挙、比例代表、大統領直接選挙、国民投票、「人間らしい生活」の権利、労働者の経営参加。「世界で最も民主的な憲法」。第48条、大統領の緊急命令権。14年後、その条項で、ヒトラーが憲法を止めた。憲法は形の上では1945年まで生きていた。
場所
50.98°N 11.32°E · ドイツ
本文
1918年の秋、第一次世界大戦の敗北は避けられなくなっていた。11月初め、北ドイツの軍港キールで、無謀な出撃を命じられた水兵たちが反乱を起こし(キール軍港の水兵反乱)、兵士と労働者の評議会が数日のうちに全国の都市に広がった。11月9日、ベルリンでは皇帝ヴィルヘルム2世の退位が発表され、社会民主党のシャイデマンが国会議事堂の窓から共和国を宣言した。その2時間ほど後、急進左派のリープクネヒトが王宮のバルコニーから「自由な社会主義共和国」を宣言した。皇帝はオランダへ逃れた。誰がどんな国を作るのか、まったく決まっていなかった。
政権を握った社会民主党のエーベルトは、ロシア革命のような評議会の独裁を避け、選挙で選ばれる国民議会に新しい国の形を決めさせる道を選んだ。そのために旧軍とも手を組んだ。1919年1月、急進左派のスパルタクス団がベルリンで蜂起すると、政府は旧軍の将校が率いる義勇軍を使ってこれを鎮圧した。指導者のローザ・ルクセンブルクとリープクネヒトは捕らえられ、殺された。この流血は、社会民主党と共産党の間に、のちまで埋まらない溝を残した。

1月19日、国民議会の選挙が行われた。20歳以上のすべての男女が投票できる選挙で、ドイツの女性が初めて票を投じた。投票率は8割を超え、30人を超える女性議員が生まれた。社会民主党が約38%、カトリックの中央党が約20%、自由主義の民主党が約19%を得て、この三党が新しい共和国を支える連合を作った。ベルリンはまだ市街戦の危険があったため、議会は南西に離れた小さな町ヴァイマルで開かれることになった。2月6日、ドイツ国民劇場で開会した議会は、エーベルトを仮の大統領に選んだ。ヴァイマルはゲーテとシラーが生きた町である。軍国主義の象徴ポツダムではなく、文化と人文主義の町で新しい国を始めることには、内外へ向けた意味もあった。
草案を書いたのは、ベルリンの商科大学の法学者で、民主党のフーゴー・プロイスだった。ユダヤ系の自由主義者で、帝政のもとでは名門の大学で正教授の地位を得られなかった人である。社会学者のマックス・ウェーバーも草案作りの協議に加わり、強い大統領を置くことを主張した。議会での審議は半年続き、その間に、敗戦国としての重い条件を課すヴェルサイユ条約を受け入れるかどうかで国は揺れた。7月31日、憲法は議会で可決され、8月11日、エーベルトが署名した。8月14日に公布され、施行された。

第1条は、ドイツ国は共和国であり、国家権力は国民に由来する、と定めた。国会は、20歳以上の男女の普通・平等・直接・秘密の選挙で、比例代表によって選ばれる。大統領は任期7年で、国民が直接選ぶ。大統領は首相を任命し、国会を解散できる。国民が自ら法律を発案し、国民投票で決める道も開かれた。後半の基本権の章は、当時として最も進んだものだった。法の前の平等と、男女が原則として同じ権利と義務を持つこと、信教・言論・集会・結社の自由に加えて、経済生活の秩序はすべての人に人間に値する生活を保障することを目指さなければならないと書いた(第151条)。所有権は義務を伴い、その行使は同時に公共の福祉に役立つべきだと定め(第153条)、労働者の団結の自由と、経営に参加する協議会を認めた。「世界で最も民主的な憲法」と呼ばれた。社会権を憲法に書き込んだ先駆けとして、のちの各国の憲法にも影響を与えた。
一方で、この憲法には、平時には目立たない仕組みがあった。第48条である。公共の安全と秩序が著しく乱され、または脅かされるとき、大統領は必要な措置をとることができ、必要なら武力を用いることができる。そのために、人身の自由や言論・集会の自由などの基本権を一時停止できる。国会はその措置の取り消しを求めることができた。共和国の初期、エーベルトはこの条項を、左右の蜂起や1923年のドイツのハイパーインフレへの対応で100回以上使った。同じ年の秋にはミュンヘン一揆も起きた。共和国は、非常の権限に支えられて生き延びた。

もう一つの弱点は、比例代表の選挙制度だった。わずかな得票でも議席が得られるため、小さな党が乱立し、連立政権は短命に終わることが多かった。そして、共和国そのものを認めない党、右の国家人民党やナチ党、左の共産党が、合わせて議会で大きな力を持つようになった。1925年、大統領選挙で旧軍の英雄ヒンデンブルク元帥が当選した。
1929年に世界恐慌が始まると、失業者は数百万に膨れ上がり、議会では過半数が作れなくなった。1930年からの首相ブリューニング、続くパーペンとシュライヒャーは、議会の支持のないまま、大統領の第48条の命令で法律に代わる措置を出し、議会が逆らえば解散した。「大統領内閣」と呼ばれる統治である。議会は飾りに近づき、選挙のたびにナチ党が伸びた。1933年1月30日、ヒンデンブルクはヒトラーを首相に任命した。

2月27日、国会議事堂が燃えた(国会議事堂放火事件)。翌28日、ヒトラーの求めでヒンデンブルクは第48条にもとづく大統領令を出し、人身の自由、言論・集会の自由、通信の秘密などの基本権を停止した。共産党の議員や活動家が大量に逮捕された。3月23日、国会は、政府が国会の議決なしに、憲法から外れることも含めて法律を作ることを認める法(全権委任法)を可決した。憲法改正に必要な3分の2を超える賛成で通ったが、共産党の議員は逮捕されるか逃れていて議場におらず、反対したのは社会民主党の94人だけだった(ナチスの政権掌握)。ヴァイマル憲法は廃止されなかった。条文は1945年まで、紙の上で生き続けた。
1949年に西ドイツで作られた基本法は、ヴァイマルの失敗から学んで設計された。大統領は国民の直接選挙をやめ、権限を小さくした。首相を倒すには、議会が次の首相を同時に選ばなければならない(建設的不信任)。選挙では5%の得票に届かない党に議席を与えない。人間の尊厳と基本権の核心は、憲法改正でも変えられない。民主主義そのものを壊そうとする政党は、憲法裁判所が禁止できる。「闘う民主主義」と呼ばれるこの考え方は、民主的な手続きを通って民主主義が葬られた14年の記憶から生まれた。