できごと

ヨークタウンの戦い

Siege of Yorktown
AD1781年10月19日
重要度 4
ヨークタウンの戦いに関わる図版:Surrender of Lord Cornwallis
Surrender of Lord Cornwallis Wikimedia Commons John Trumbull · Public domain

概要

フランス艦隊が海を塞ぎ、大陸軍とフランス軍が陸を囲んだ。イギリス軍8000の降伏で、独立戦争の決着がついた。

場所

ヨークタウン
37.24°N -76.51°E · アメリカ合衆国・ヴァージニア州

関わった人(1)

ジョージ・ワシントンAD1732年2月22日–AD1799年12月14日 · 総指揮

本文

1781年10月19日、アメリカのヴァージニアの港町ヨークタウンで、イギリス軍の司令官コーンウォリスの部隊、およそ8000人が降伏した。6年前のレキシントン・コンコードの戦いで始まったアメリカ独立戦争の、陸での最後の大きな戦いになった。

戦争の初めのころ、イギリスは北部の植民地を押さえようとした。だが1777年、サラトガでイギリス軍の一部隊が降伏すると、フランスが植民地の側について参戦した。七年戦争でイギリスに奪われたものを取り返す好機だった。スペインとオランダも続いた。イギリスにとって、戦争はアメリカだけでなく、カリブ海、インド、ヨーロッパの近海に広がる世界戦争になった。

1875年に描かれたヨークタウンの戦いの図解
1875年に描かれたヨークタウンの戦いの図解Wikimedia Commons S. G. Goodrich · Public domain

1778年以降、イギリスは方針を変え、王に忠実な住民が多いと見た南部に力を注いだ。ジョージアとサウスカロライナの港を取り、コーンウォリスが内陸へ進んだ。だが、勝っても勝っても土地を押さえきれず、ゲリラ戦に兵を削られた。1781年の春、コーンウォリスは北のヴァージニアへ入り、夏に、チェサピーク湾に面したヨーク川の河口、ヨークタウンに陣を構えた。海に面していれば、ニューヨークのイギリス艦隊から補給も援軍も得られ、いざとなれば海から退ける、と考えた。

その海が、閉じられた。フランスのグラース提督が、28隻の戦列艦を率いて、カリブ海から北上してきた。9月5日、湾の入口で、救援に来たイギリス艦隊と戦い、退けた。艦隊どうしの戦いとしては大きな決着がついたわけではないが、イギリス艦隊はニューヨークに戻り、湾はフランスが押さえた。コーンウォリスは、海からの退路を断たれた。

オーギュスト・クーデール画『ヨークタウン包囲戦』(1836年頃)。ロシャンボー、ワシントン、ラファイエットらが描かれる
オーギュスト・クーデール画『ヨークタウン包囲戦』(1836年頃)。ロシャンボー、ワシントン、ラファイエットらが描かれるWikimedia Commons Public domain

陸では、ジョージ・ワシントンが動いていた。ワシントンは、ニューヨークのイギリス軍を攻めたいと考えていたが、フランス軍の司令官ロシャンボーと話し合い、グラースの艦隊がチェサピークに向かうと知って、標的をヨークタウンに切り替えた。8月の半ば、大陸軍とフランス軍はニューヨークの近くから南へ向かった。ニューヨークを攻めるふりをして、イギリス軍の目をそらしながら、600キロ以上を急いだ。ヴァージニアでは、フランスから来た若い貴族ラファイエットの部隊が、コーンウォリスを見張っていた。

9月の末、アメリカ軍とフランス軍、あわせて1万8000から1万9000人ほどがヨークタウンを囲んだ。半分近くはフランスの兵だった。10月6日、包囲軍は町に向けて塹壕を掘りはじめ、9日から大砲を撃ち込んだ。14日の夜、イギリス軍の前線の二つの堡塁を、フランス軍とアメリカ軍が一つずつ夜襲で奪った。アメリカ側の攻撃を率いたのは、後に初代の財務長官となるアレクサンダー・ハミルトンだった。大砲は、さらに近くから町を撃てるようになった。

フランス軍大砲兵陣地のヴァリエール式4ポンド砲(ヴァージニア州ヨークタウン)
フランス軍大砲兵陣地のヴァリエール式4ポンド砲(ヴァージニア州ヨークタウン)Wikimedia Commons Djmaschek · CC BY 4.0

コーンウォリスは、16日の夜、川を渡って対岸から逃れようとしたが、嵐に阻まれた。17日、降伏の交渉を申し入れた。

19日の降伏の式に、コーンウォリスは病を理由に出てこなかった。代理の将校が剣を差し出そうとすると、ワシントンは、自分の副官の将軍に受け取らせた。イギリス兵は武器を積み上げて行進した。このときイギリスの軍楽隊が「世界はひっくり返った」という曲を奏でたという話がよく知られているが、記録に現れるのはずっと後のことで、確かではない。

第10堡塁の奪取
第10堡塁の奪取Wikimedia Commons H. Charles McBarron, Jr. · Public domain

知らせがロンドンに届くと、首相ノース卿は、ああ神よ、すべて終わった、と何度も言ったと伝えられる。イギリスはまだニューヨークなどに大軍を持っていたが、議会では戦争を続ける意欲が失われた。1782年の春、ノースは辞任し、新しい政府は講和の交渉を始めた。

陸の戦いはこの後ほとんど起きず、1783年のパリ条約で、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めた(アメリカ独立宣言から7年後になる)。ミシシッピ川までの広い土地が、新しい国のものになった。

アメリカ独立宣言に関わる図版:United States Declaration of Independence
アメリカ独立宣言Wikimedia Commons original: w:Second Continental Congress ; reproduction: William Stone · Public domain

勝利の陰で、大きなつけを負った国がある。フランスは、この戦争に莫大な金をつぎ込み、借金で国の財政が行き詰まった。その立て直しのために、王は1789年に三部会を開かざるをえなくなる。そこからフランス革命が始まった。ヨークタウンでアメリカ人とともに戦ったラファイエットは、革命の初めの年に、人権宣言の草案を議会に出している。

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