できごと

ニューディール

New Deal
AD1933年3月9日
重要度 5
ニューディールに関わる図版:New Deal collage
New Deal collage Wikimedia Commons LordHarris at English Wikipedia · Public domain

概要

就任の翌日、銀行を全部閉めた。「100日」。緊急銀行法、農業調整法、テネシー川流域開発公社、全国産業復興法、市民保全部隊、証券法。1935年、社会保障法、ワグナー法(労組の権利)、公共事業促進局。「恐れなければならないのは、恐れそのものだ」。炉辺談話。連邦政府が経済に手を入れる国になった。恐慌は終わらず、戦争で終わった。

場所

ワシントンD.C.
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国

関わった人(1)

フランクリン・ローズヴェルトAD1882年1月30日–AD1945年4月12日 · 大統領

本文

1929年10月、ニューヨークの株式市場が暴落し、アメリカは底の見えない不況に落ち込んだ(世界恐慌)。工場は止まり、農産物の値段は崩れ、銀行は次々につぶれて人々の預金が消えた。1932年には、働く人の4人に1人が仕事を失っていた。家を失った人々は町はずれにトタンと板で小屋を建てて暮らし、その集落は大統領の名をとって「フーヴァー村」と呼ばれた。フーヴァー大統領は、景気はやがて自然に回復すると考え、政府が直接に救済することには慎重だった。中西部の大平原では、干ばつと砂嵐が畑を吹き飛ばしはじめていた(ダストボウル)。

1932年の大統領選挙で、民主党のフランクリン・ローズヴェルトは、アメリカの人々に「新しい取り決め」、ニューディールを約束して圧勝した。ニューヨーク州の知事として失業者の救済に取り組んできた人物で、若いころにかかった小児まひのために、脚に装具をつけなければ立てなかった。具体的な計画をはっきり示していたわけではない。とにかく何かを試み、うまくいかなければ別のことを試す、というのが彼の考え方だった。

米国の実質GDP(1910-1960年)、赤色強調は大恐慌時代 (1929–1939)
米国の実質GDP(1910-1960年)、赤色強調は大恐慌時代 (1929–1939)Wikimedia Commons Lawrencekhoo · Public domain

1933年3月4日、土曜日、ローズヴェルトは大統領に就任した。その日、全米の多くの州で銀行が閉まっていた。預金を引き出そうとする人々の取りつけ騒ぎが止まらず、州知事たちが銀行の営業を止めていたのである。就任の演説で、ローズヴェルトは、私たちが恐れなければならない唯一のものは、恐れそのものである、と語った。2日後の3月6日、彼は全国の銀行をいっせいに休ませた。3月9日に議会が招集されると、その日のうちに緊急銀行法が出され、下院はわずか40分ほどの審議で通し、上院も夜までに可決した。検査で健全と認められた銀行から順に営業を再開させる、という法律だった。

3月12日、日曜日の夜、ローズヴェルトはラジオで国民に語りかけた。暖炉のそばで話すような口調から、のちに「炉辺談話」と呼ばれる放送の最初の回である。銀行の仕組みを分かりやすく説明し、再開した銀行にお金を預けるほうが、マットレスの下にしまっておくより安全だと語った。翌日から銀行が開くと、引き出しよりも預け入れのほうが多くなった。

1933年のフランクリン・ルーズベルト
1933年のフランクリン・ルーズベルトWikimedia Commons Unknown author Unknown author or not provided · Public domain

議会が招集されてからの100日あまりのあいだに、十数本の大きな法律が次々に成立した。農業調整法は、農家に補助金を払って作付けを減らさせ、農産物の値段を引き上げようとした。値崩れを防ぐために、育てた綿花の畑を掘り返させ、子豚を何百万頭も処分させたことは、飢えている人がいるのに食べ物を捨てるのかと批判を浴びた。市民保全部隊は、仕事のない若い男たちを集めて、森に木を植え、国立公園の道を作らせた。延べで300万人近くがここで働いた。テネシー川流域開発公社は、7つの州にまたがる川にダムを次々に建て、洪水を防ぎ、貧しい農村に安い電気を届けた。全国産業復興法は、産業ごとに価格や賃金、労働時間の取り決めを作らせ、守る企業には青い鷲の印を掲げさせた。銀行の預金を国が保証する制度が作られ、銀行と証券の業務が分けられ、株を売る会社に情報の開示が義務づけられた。金とドルの交換も止められた(金本位制の崩壊)。

1935年からの改革は、第二のニューディールと呼ばれる。公共事業促進局は、延べ850万人ほどを雇い、道路や橋、学校や空港を建てさせた。作家には各州の案内書を書かせ、画家には郵便局の壁画を描かせ、俳優や音楽家には各地で公演をさせた。社会保障法は、老後の年金と失業保険の仕組みを初めて国の制度として作った。全国労働関係法、通称ワグナー法は、労働者が組合を作り、会社と団体で交渉する権利を守り、これを機に大量生産の工場の労働者を組織する新しい労働組合の連合が生まれた。

1935年、ニューディールの各機関を略称カードゲームに見立てた風刺画(ヴォーン・シューメーカー画)
1935年、ニューディールの各機関を略称カードゲームに見立てた風刺画(ヴォーン・シューメーカー画)Wikimedia Commons w:Vaughn Shoemaker · Public domain

ローズヴェルトのまわりには、大学教授たちの「ブレーン・トラスト」や、救済事業を率いたハリー・ホプキンズ、公共事業を率いたハロルド・イッキーズらが集まった。労働長官のフランシス・パーキンズは、アメリカで初めての女性の閣僚だった。妻のエレノアは、脚の不自由な夫に代わって全国を回り、炭鉱や貧しい農村の様子を伝え、黒人や女性の声を政権に届けた。

ニューディールには、左右の両方から批判が浴びせられた。財界の保守派は、政府が経済に口を出すのは社会主義だと非難した。一方、ルイジアナの政治家ヒューイ・ロングは、金持ちの財産を取り上げて全国民に分けよと唱えて人気を集め、ラジオで人気のあったコグリン神父も、ローズヴェルトは手ぬるいと攻撃した。最高裁判所は1935年に全国産業復興法を、1936年には農業調整法を、憲法に反するとして無効にした。1937年、ローズヴェルトは最高裁の判事を増やして自分の味方を送り込む案を出したが、司法の独立を脅かすとして身内の民主党からも反対され、失敗した。ただ同じ年から、最高裁はニューディールの法律を認める判断に転じた。

フランクリン・ルーズベルトの肖像
フランクリン・ルーズベルトの肖像Wikimedia Commons Public domain

不況そのものは、なかなか終わらなかった。1937年、ローズヴェルトが景気の回復を見て政府の支出を減らすと、景気は再び大きく落ち込んだ。1939年になっても、失業率は17%前後あった。不景気のときには政府が借金をしてでも支出を増やすべきだというケインズ『一般理論』の考えが、まだ政策の柱として受け入れられていなかったのである。アメリカの失業を本当に消したのは、第二次世界大戦(第二次世界大戦)に備えた巨額の軍事支出だった。

それでも、ニューディールはアメリカという国の形を変えた。連邦政府が、失業者を救い、老後の暮らしを支え、銀行と株の取引を監督し、農産物の値段を支え、労働者の権利を守る。そうした責任を、国が引き受けるようになった。ただし、南部の議員の協力を得るために、黒人の多い農場の労働者や家事の使用人は、初めは社会保障の対象から外されていた。政治では、労働者、都市の移民、南部の白人、そして北部の黒人が民主党のもとにまとまる「ニューディール連合」が生まれ、1960年代まで続いた。1980年代、ロナルド・レーガン大統領は、政府こそが問題だと唱えて、大きくなった政府を削りはじめた。それでも、社会保障の年金と、預金の保険と、証券取引の監視の仕組みは、いまも残っている。

動画(1)

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