概要
1942年8月8日、日本軍がビルマまで迫るなか、インド国民会議はボンベイで、イギリスはただちにインドから立ち去れと求める決議をした。ガンディーは「行動か死か」と訴える。翌朝、イギリスはガンディーとネルーら指導者をいっせいに捕らえた。指導者を失った人々は各地で役所や鉄道や電信を襲い、軍と警察は発砲して、千人を超える人が死んだ。運動は数か月で抑え込まれたが、戦争のさなかに十万人を牢に入れなければ治められない植民地を、イギリスが戦後も持ち続けることは難しくなった。
場所
18.94°N 72.84°E · インド・マハーラーシュトラ州
関わった人(1)
ガンディーAD1869年10月2日–AD1948年1月30日 · 決議を率いる本文
1939年、第二次世界大戦が始まると、インド総督は、インドの人々に諮らずにインドの参戦を宣言した。国民会議はこれに抗議して、各州の政府から退いた。1942年、日本軍がシンガポールを落とし、ビルマに攻め込むと、イギリスは戦争への協力を得るため、使節クリップスを送って、戦後の自治を約束した。しかし、すぐの独立を認めない案に、国民会議は応じなかった。
1942年8月8日、ボンベイで開かれた国民会議の委員会は、イギリスにただちにインドから立ち去るよう求める決議をした。ガンディーは演説で、自由を得るか、その試みの中で死ぬか、「行動か死か」と呼びかけた。非暴力の大きな運動を始めるつもりだった。
翌8月9日の未明、イギリスはガンディー、ジャワハルラール・ネルーをはじめ、国民会議の指導者をいっせいに逮捕した。国民会議は非合法とされる。指導者を失った各地の人々は、自然に立ち上がった。駅や郵便局や警察署が焼かれ、線路と電信の線が切られた。いくつかの地方では、イギリスの役人を追い出して、自分たちの政府を名乗ったところもある。
軍と警察は群衆に発砲し、村を焼き、鞭で打った。千人を超える人が死に、十万人ほどが牢に入れられた。運動は年末までにほぼ抑え込まれた。一方で、イギリスは、戦争のさなかに大軍を国内の治安に割かなければならなかった。イギリス側でも、戦争が終われば、インドを力で治め続けることはできないという見方が広がる。5年後、インドは独立した(インドの独立)。