ルイ14世
概要
72年在位した。貴族をヴェルサイユに集めて宮廷に縛り、絶対王政の手本と呼ばれる形を作る。
関わったできごと(2)
フロンドの乱AD1648年8月26日 · 逃げたヴェルサイユ宮殿への移座AD1682年 · 当人本文
1638年9月5日、パリ西郊のサン・ジェルマン・アン・レーの城で生まれた。父ルイ13世と母アンヌ・ドートリッシュは、結婚して23年、子に恵まれなかった。待ち望まれた王子は「神から与えられた者(デュードネ)」と呼ばれた。国の政治は、父王の宰相リシュリューが握っていた時代である。
1643年、父が死に、4歳で王位を継いだ。政治は母の摂政のもとで、イタリア生まれの枢機卿マザランが動かした。フランスはそのころ、ヨーロッパを巻き込んだ三十年戦争の最中で、戦費をまかなう重税に国中が不満を募らせていた。

1648年、高等法院と貴族、そしてパリの民衆が王権に背いた。フロンドの乱である。翌年1月の夜、10歳の王は母とマザランに連れられて、ひそかにパリを脱出した。寒い城で、寝具も足りない夜を過ごしたと伝えられる。1651年には、王が逃げ出すのではないかと疑った群衆が宮殿に押し入り、寝台で眠ったふりをする少年王の姿を確かめて帰っていった。乱は数年で鎮まったが、パリと貴族への不信は、王の心に深く刻まれたと言われる。
1661年3月、マザランが亡くなった。翌朝、22歳の王は大臣たちを集め、今後は宰相を置かず、すべて自分が決める、と告げた。周囲は若い王の気まぐれだと思ったが、王はそれから54年間、本当にそうした。同じ年、財務長官フーケが、自分の城で王を招いて贅を尽くした宴を開くと、王は横領の疑いで彼を逮捕させ、終身の牢に入れた。後任として財政を任されたのがコルベールである。コルベールは税の仕組みを整え、国の工場を作り、海軍と植民地を育てた。

若い頃の王は、宮廷の舞踊劇で昇る太陽の役を踊った。太陽王という呼び名はここから来ている。王は芸術と学問を国の飾りとして手厚く保護した。劇作家のモリエールやラシーヌ、音楽家のリュリが宮廷のために作品を作り、学問や美術のアカデミーが次々に作られた。
1682年、王は宮廷と政府を、パリの西のヴェルサイユに移した(ヴェルサイユ宮殿への移座)。父の狩りの館だった場所を、数十年かけて巨大な宮殿と庭園に造り変えたものである。王は有力な貴族たちをここに住まわせた。王の起床、着替え、食事、散歩、就寝のすべてが儀式になり、王にシャツを手渡す役、燭台を持つ役といった名誉を、貴族たちは争い合った。王のそばにいなければ恩恵は得られず、領地にこもって兵を集める暇も無い。かつて反乱を起こした大貴族たちは、宮廷の作法の中に閉じ込められていった。王のかつらに倣った大きな巻き毛のかつらは、ヨーロッパ中の宮廷の流行になった(かつらの宮廷)。

「朕は国家なり」という言葉は王を語るときによく引かれるが、本人がそう言ったという確かな証拠は無い。ただ、王が国の意思を自分一人に集めようとしたことは確かである。
王は、王の栄光は戦いの勝利にあると考えていた。治世の間に、スペイン領ネーデルラントをめぐる戦争、オランダとの戦争、ヨーロッパの大半を敵に回した九年戦争と、大きな戦争を次々に起こした。北東の国境は少しずつ広がったが、戦いのたびに国の借金はふくれ上がった。最後のスペイン継承戦争では、孫をスペイン王に据えることには成功したが、フランスは疲れ切り、凶作の年には各地で多くの人が飢えて死んだ。
信仰でも、国を一つにしようとした。祖父アンリ4世が1598年に出したナントの勅令は、プロテスタント(ユグノー)に信仰の自由を認めていた。王はプロテスタントに改宗を迫り、兵士を家々に泊まり込ませて嫌がらせをさせたあと、1685年、この勅令を廃止した。禁じられていたにもかかわらず、20万人前後のユグノーが国外へ逃れた。その中には腕のよい職人や商人が多く、彼らを受け入れたオランダやプロイセン、イギリスの産業を豊かにすることになった。

私生活では、多くの愛人を持ち、何人もの庶子をもうけた。王妃の死後は、かつて庶子たちの養育係だったマントノン夫人と、ひそかに結婚したとされる。晩年の宮廷は、信心深い夫人の影響で、かつての華やかさを失っていった。
晩年は不幸が続いた。1711年から翌年にかけて、跡継ぎの息子、孫、そして曾孫の一人が、病で相次いで亡くなった。残されたのは、5歳の曾孫ただ一人だった。1715年、王は足の壊疽に冒された。死を前にして幼い曾孫を枕元に呼び、自分は戦争を好みすぎた、その点で私を真似てはならない、と諭したと伝えられる。9月1日、77歳の誕生日を目前にして亡くなった。在位は72年に及び、ヨーロッパの主な君主として最も長い。

棺がパリの近くを通ったとき、沿道では悲しむどころか、罵声を浴びせる者もいたという。王が作り上げた中央集権の国家と宮廷の文化は、その後のヨーロッパの君主たちの手本になった。一方、積み上がった借金と、宮廷に閉じ込められて役目を失った貴族という問題は、そのまま後の世代に引き継がれた。曾孫ルイ15世の次の王がルイ16世である。