できごと

ユーレカ砦の反乱

Eureka Stockade
AD1854年12月3日
重要度 4
ユーレカ砦の反乱に関わる図版:Eureka stockade battle
Eureka stockade battle Wikimedia Commons John Black Henderson (1827-1918) · Public domain

概要

ビクトリアの金鉱で、掘る権利の高い免許料と、警官の取り締まりに、鉱夫が怒った。免許証を焼き、青い南十字星の旗の下で「互いの権利と自由を守る」と誓い、丸太で砦を作った。日曜の夜明け、兵と警官が襲って15分。鉱夫22人、兵5人が死んだ。裁判で陪審は全員を無罪にした。翌年、免許料は廃止され、鉱夫に選挙権が与えられた。オーストラリアの民主主義の神話になった。

場所

バララット
-37.56°N 143.85°E · オーストラリア・ビクトリア州

本文

1851年、オーストラリア南東部のビクトリア植民地で、金が見つかった(オーストラリアのゴールドラッシュ)。バララットやベンディゴの谷に人々が殺到し、やがてイギリスやアイルランド、ドイツ、イタリア、アメリカ、そして中国から、海を越えて何万もの人が押し寄せた。1851年に7万人台だった植民地の人口は、10年後には50万人を超えた。

植民地政府は、金を掘る者に月30シリングの免許料を課した。掘ってよい区画はわずか数メートル四方で、金が出ても出なくても、毎月同じ額を払わなければならない。熟練した職人の稼ぎの何日分にもあたる額だった。しかも、免許の取り締まりは乱暴だった。警官が採掘場を回って免許証を見せろと迫る「免許狩り」が繰り返され、持っていない者は捕らえられ、ときには木に鎖でつながれた。警官の中には賄賂を取る者も多かった。そして鉱夫たちには、その仕組みに異を唱える手段がなかった。植民地の議会の選挙権は土地や財産を持つ者に限られ、テントで暮らす鉱夫の大半は投票できなかったのである。

「民衆を導く自由の女神」(ドラクロワ画)
「民衆を導く自由の女神」(ドラクロワ画)Wikimedia Commons Eugène Delacroix · Public domain

1854年10月、バララットでスコットランド人の鉱夫ジェームズ・スコビーが殺された。疑われたのは、ユーレカ・ホテルの主人ベントリーだった。ところが、役人と親しいベントリーは治安判事の審理で無罪とされた。怒った鉱夫たちは10月17日に集まり、ホテルに火を放って焼き払った。そのうち数人が捕らえられ、裁判にかけられた。

不満は、一つの事件を越えて広がった。11月11日、鉱夫たちはバララット改革同盟を結成し、要求をまとめた。免許料の廃止に加えて、すべての成人男子に選挙権を与えること、議員になるための財産の条件をなくすこと、議員に歳費を払うことなど、イギリス本国のチャーティスト運動が掲げた要求とよく似ていた。実際、同盟の中心にはイギリスでチャーティスト運動に関わった人々もいた。だが総督のホザムは要求を退け、兵を増やした。

チャーティスト運動に関わる図版:Chartist meeting on Kennington Common by William Edward Kilburn 1848 - restoration1
チャーティスト運動Wikimedia Commons William Edward Kilburn (1818 - 1891) Details on Google Art Project · Public domain

11月29日、バララットの丘で1万人ほどが集まり、鉱夫たちは免許証を火に投じた。この集会で初めて掲げられたのが、青地に白い十字と五つの白い星をあしらった旗である。南の空に輝く南十字星をかたどったもので、のちにユーレカ旗と呼ばれる。翌日、政府が再び免許狩りを行うと、鉱夫たちはアイルランド出身の技師ピーター・レイラーを指導者に選んだ。レイラーは旗の下にひざまずき、南十字星にかけて、互いの権利と自由を守るために忠実に戦うことを誓おうと呼びかけた。鉱夫たちはユーレカの採掘場の一角に丸太で柵を巡らし、砦を築いた。

12月3日、日曜日の夜明け前。砦にこもっていたのは、多くが休みに家へ戻った後の150人ほどだった。そこへ300人近い兵と警官が襲いかかった。戦いは15分ほどで終わった。鉱夫の死者は20人あまり(数え方によって幅がある)、兵の死者は5、6人とされる。砦は焼かれ、旗は引きずり降ろされ、兵たちは記念に布を切り取って持ち去った。レイラーは腕を撃たれて重傷を負い、仲間にかくまわれて逃れた。彼の首には賞金がかけられたが、居場所を密告する者はいなかった。片腕は切断しなければならなかった。

ラファエロ・カルボーニに発行された金採掘免許証
ラファエロ・カルボーニに発行された金採掘免許証Wikimedia Commons Raffaello Carboni · Public domain

政府は、捕らえた鉱夫のうち13人を大逆罪で裁判にかけた。死刑にもなりうる罪である。だが1855年、メルボルンの陪審は、13人全員を無罪とした。判決が告げられると、傍聴席は歓声に包まれたという。世論は、明らかに鉱夫の側にあった。

政府も方針を変えざるをえなかった。王立委員会の勧告を受けて、1855年、月ごとの免許料は廃止され、年1ポンドの「鉱夫権」に置き換えられた。鉱夫権を持つ者には、選挙権も与えられた。同じ年、レイラーはバララット選出の議員となり、のちには植民地議会の議長にまで上った。翌1856年、ビクトリアは秘密投票を取り入れ、1857年には成人男子の普通選挙が実現した。票を投じる人の名を隠すこの投票の方式は、のちに「オーストラリア式投票」と呼ばれて世界中に広まっていく(秘密投票)。

1851年12月15日の金採掘者の大集会(トーマス・ハム版画、D・タロック画)
1851年12月15日の金採掘者の大集会(トーマス・ハム版画、D・タロック画)Wikimedia Commons Thomas Ham · Public domain

ユーレカの反乱は、規模で言えば小さな事件である。それでも、税を課される者が政治に声を持つべきだという原則を、ほとんど血を流す覚悟で突きつけ、結果として実際に勝ち取った。40年後にオーストラリアを旅したマーク・トウェインは、この反乱を、小さいが、原則のための戦いとして大きな勝利だったと書いている。

ユーレカ旗は、その後もさまざまな人々に掲げられてきた。労働組合や共和制を求める人々、さらには移民の排斥を唱える人々までがこの旗を使い、旗が誰のものかをめぐって争いが続いている。切り取られて小さくなった本物の旗は、いまバララットの記念館に展示されている。ただ、ユーレカの物語の中で、同じ金鉱で働いていた大勢の中国人の鉱夫が語られることは少ない。反乱の翌年の1855年、ビクトリアは中国人の入国に重い人頭税を課す法を作っている。鉱夫の権利が広がったのと同じ年に、締め出される人々もいたのである。民主主義の神話もまた、誰を内に入れ、誰を外に置くかを選んでいる。

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