人物

コラソン・アキノ

Corazon Aquino
AD1933年1月25日 – AD2009年8月1日(享年76)
フィリピン重要度 3

概要

夫を暗殺された主婦から大統領になった。市民が戦車の前に立つ形で独裁を終わらせた「ピープルパワー」の顔になる。

関わったできごと(1)

ピープルパワー革命AD1986年2月25日 · 大統領になる

本文

マリア・コラソン・コファンコは1933年1月25日、アメリカの統治下にあったルソン島中部のタルラック州に生まれた。フィリピンが独立する(フィリピンの独立)のは13年後である。コファンコ家は広大な砂糖農園と銀行を持つフィリピン有数の富豪で、父も祖父も政治家だった。愛称はコリー。マニラの修道会の学校で学んだあと、13歳でアメリカへ渡り、ニューヨークの女子大学でフランス語と数学を修めた。帰国して法律を学び始めたが、1954年、新聞記者から政治家への道を歩み始めていたベニグノ・アキノ(愛称ニノイ)と結婚して学業をやめた。5人の子を育て、表に立つのはいつも夫だった。

コラソン・アキノ(1986年)
コラソン・アキノ(1986年)Wikimedia Commons Airman Gerald B. Johnson · Public domain

ニノイは若くして町長、州知事、上院議員となり、1965年から大統領の座にあったフェルディナンド・マルコスの最大の政敵と目された。1972年、マルコスは戒厳令を敷き(マルコスの戒厳令)、議会を閉ざし、ニノイを真っ先に逮捕した。獄中生活は7年7か月に及び、軍事法廷は死刑を言い渡した。コリーは毎週面会に通い、獄中の夫の伝言を外へ運んだ。1980年、心臓病の手術のためにアメリカへ渡ることが許され、一家はボストンで3年の亡命生活を送った。家族にとっては、穏やかな日々だったと後に語っている。

1983年、ニノイは帰国を決めた。マルコスの病が重く、後継をめぐって国が乱れることを恐れたのである。8月21日、マニラ国際空港に着いた飛行機のタラップを、兵士に付き添われて降りる途中、頭を撃たれて死んだ。政府は、その場で射殺された男を共産ゲリラの犯人だと発表したが、信じる者はいなかった。マニラの通りを進んだ葬列には、200万人ともいわれる人々が加わった。

米空軍を称える式典でのアキノ
米空軍を称える式典でのアキノWikimedia Commons SSGT RONALD J. MANN · Public domain

経済は傾き、国民の怒りは収まらなかった。1985年11月、マルコスはアメリカ向けに自分の支持を示そうと、任期を前倒しした大統領選挙を翌年2月に行うと発表した。野党は割れていたが、100万人を超える署名が集まり、コリーに立候補を求めた。彼女は迷った末に引き受けた。政治の経験が無いと攻撃されると、自分には不正の経験も、盗みの経験も、うその経験も、政敵を暗殺した経験も無いと認める、と切り返した。黄色が彼女の色になり、選挙は熱を帯びた。

1986年2月7日の投票では、各地で票の買収と脅しが横行した。選挙管理委員会の集計を担っていた技術者たちが、数字が操作されていると抗議して席を立った。議会はマルコスの勝利を宣言し、コリーは不服従と不買の運動を呼びかけた。

2月22日、事態が動いた。国防相のエンリレと、軍の副参謀総長ラモスがマルコスに背き、マニラ郊外の基地に立てこもったのである。カトリック教会のシン枢機卿はラジオで、彼らを守るよう市民に呼びかけた。基地の前を走る大通り、エドサ通りに、数十万、のちに百万を超えるともいわれる人々が集まった。修道女たちがロザリオを手に戦車の前にひざまずき、市民は兵士に花や食べ物を差し出した。兵士たちは撃たなかった。2月25日、コリーとマルコスがそれぞれ大統領の就任式を行ったが、その夜、マルコスは家族とともにアメリカ軍のヘリコプターで宮殿を去り、ハワイへ亡命した。これがピープルパワー革命である。

ピープルパワー革命に関わる図版:Corazon Aquino inauguration
ピープルパワー革命Wikimedia Commons Malacañang Palace archives · Public domain

大統領となったコリーは、政治犯を釈放し、新しい憲法を作らせた。1987年の憲法は、大統領の任期を1期6年に限り、再選を禁じている。独裁を二度と許さないための仕組みだった。だが政権は安定しなかった。不満を持つ軍の一部が起こしたクーデター未遂は大小7回に及び、1989年12月の最も大きな反乱では、アメリカ軍機の支援を受けてようやく鎮めた。共産ゲリラとの和平は失敗し、約束した農地改革は、自らの一族の農園を含む大地主の抵抗で骨抜きになったと批判された。1991年には、上院がアメリカ軍の基地の存続を認める条約を否決し、彼女はそれを受け入れた。

1992年、コリーは任期を終え、自ら後継に推したラモスに政権を引き渡した。20年に及んだ独裁のあとで、選挙で選ばれた後継者に権力を平和のうちに引き渡したことの意味は大きかった。退任後も、権力の延命を図る大統領が現れるたびに抗議の先頭に立った。2009年8月1日、大腸がんのために76歳で死んだ。翌年、長男のベニグノ・アキノ3世が大統領に選ばれている。

副大統領ダン・クエールとともにアーリントン国立墓地の式典に出席するアキノ(1989年)
副大統領ダン・クエールとともにアーリントン国立墓地の式典に出席するアキノ(1989年)Wikimedia Commons U.S. Government · Public domain

1986年の出来事は、軍と市民が向き合い、ほとんど血を流さずに独裁が倒れた例として、世界に強い印象を残した。「ピープルパワー」という言葉は、その後、各地の非暴力の政権交代を語るときに使われるようになった。その一方で、マルコスの息子が2022年に大統領に選ばれたことは、あの革命が何を変え、何を変えなかったのかを、改めて問いかけている。

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