できごと

三十人政権

Thirty Tyrants
BC404年
重要度 4
三十人政権に関わる図版:Lysander-Sparta
Lysander-Sparta Wikimedia Commons Published by Guillaume Rouille(1518?-1589) · Public domain

概要

リュサンドロスが立てた30人の寡頭。クリティアス、ソクラテスの元弟子。8か月で1500人を殺し、財産を取り、市民を3000人に絞った。トラシュブロスがピュライから戻ってペイライエウスで戦い、クリティアスが死んだ。民主政が戻り、4年後にソクラテスを裁いた。

場所

アテナイ
37.98°N 23.73°E · ギリシア・アッティカ

関わった人(2)

クリティアスBC460年–BC403年 · 首領ソクラテスBC470年頃–BC399年 · 元弟子

本文

紀元前405年、アイゴスポタモイの海戦でアテナイの艦隊はスパルタの将リュサンドロスに壊滅させられた。海からの穀物の道を断たれたアテナイは、冬じゅう包囲されて飢え、紀元前404年の春に降伏した。27年に及んだペロポネソス戦争の終わりである。長い城壁は笛の音に合わせて取り壊され、艦隊はわずか12隻を残して引き渡された。

降伏の条件の一つは、アテナイが「父祖の国制」に戻ることだった。何が父祖の国制なのかはあいまいで、民主政に反感を持つ人々は、これを民会と抽選の役人による民主政をやめる口実にした。リュサンドロスが立ち会う民会で、国の法を書き改めるという名目で30人の委員が選ばれた。その中心に立ったのが、名門の生まれで、詩や悲劇も書いた知識人のクリティアスと、穏健な寡頭政を唱える政治家テラメネスである。のちに三十人僭主と呼ばれる人々である。

30人は、法を書き改めるどころか、権力を握り続けた。彼らはスパルタに守備隊を求め、700人ほどのスパルタ兵がアクロポリスに置かれた。初めは評判の悪い告発屋などを裁いて喝采を浴びたが、やがて政敵や金持ちを次々に捕らえて殺すようになった。在留外国人の金持ちが狙われ、弁論家リュシアスの兄ポレマルコスは財産目当てに捕らえられて毒を飲まされ、リュシアスは逃れた。市民の権利を持つのは選ばれた3000人だけとされ、それ以外の人々は武器を取り上げられ、都の外へ追い出された。8か月ほどの支配の間に殺された人は1500人にのぼったと伝えられる。

殺しすぎだと声を上げたテラメネスは、仲間から排除された。クリティアスは評議会の場で3000人の名簿から彼の名を消し、名簿に無い者は30人の判断で殺せる、と宣言した。テラメネスは祭壇にすがったが引きはがされ、毒の杯を飲まされた。飲み干した最後の一滴を、宴の遊びのように床に振りまいて、麗しのクリティアスに乾杯、と言ったとクセノフォンは記している。亡命していたアルキビアデスも、この年に小アジアで殺された。クリティアスがリュサンドロスを通じて、ペルシアの総督に殺させたとも伝えられる。

ソクラテスもこの支配の下にいた。30人はソクラテスを含む5人を呼び出し、サラミス島の市民レオンを連れてくるよう命じた。罪の無い人を殺すことに市民を巻き込み、共犯にするためである。4人は命令に従ったが、ソクラテスは何もせずに家に帰った。30人の支配があと少し長く続いていたら、自分は殺されていただろう、と彼はのちの裁判で語っている。クリティアスも、30人の一人カルミデスも、かつてはソクラテスの周りに集まった若者だった。

紀元前404年の冬、テーバイに逃れていた民主派のトラシュブロスが、わずか70人ほどを率いて国境のピュレの砦を奪った。仲間は日に日に増え、翌年の春にはアテナイの港ペイライエウスに入り、ムニキアの丘で30人の軍を迎え撃った。この戦いでクリティアスとカルミデスが討たれた。30人はエレウシスに退き、都には代わりに10人の委員が立った。スパルタではリュサンドロスの力が強くなりすぎることを嫌う声があり、王パウサニアスが軍を率いて来て、両派の和解を取り持った。

紀元前403年の秋、民主政が戻った。このとき結ばれた和解の柱が、過去の悪を蒸し返さない、という誓いである。30人とその手先の一部を除いて、内乱の間の行いは問わないとされ、市民たちはこれを守った。歴史に残る最初の恩赦の一つとされる。エレウシスに残った30人の残党は、紀元前401年に滅ぼされた。

それから4年後の紀元前399年、ソクラテスは、国の神々を認めず若者を堕落させたという罪で訴えられ、死刑を言い渡された(ソクラテスの死)。告発状には、クリティアスやアルキビアデスの名は書かれていない。恩赦の誓いがあったからである。だが、市民の多くの胸に、あの若者たちを育てたのは誰か、という思いがあったことは想像に難くない。

ソクラテスの死に関わる図版:David - The Death of Socrates
ソクラテスの死Wikimedia Commons Jacques-Louis David · Public domain

プラトンにとって、クリティアスは母の従兄弟、カルミデスは母の兄弟だった。プラトンの名で伝わる『第七書簡』(真作かどうか議論がある)には、若いころ政治の道に進むつもりで、30人に誘われたが、彼らのすることを見て身を引いた、そして民主政が戻ると、今度はその民主政が師を殺した、と記されている。三十人政権は、民主政の敵の見本として語られる。同時に、その民主政がわずか数年のちにソクラテスを裁いたことも、同じ町の同じ時代の出来事だった。

同じ時代のできごと

『老子』の成立成立年代に諸説ありアンフィポリスの戦いBC422年シケリア遠征BC415年アルギヌサイの海戦BC406年パーニニの文法BC400年頃アイゴスポタモイの海戦BC405年三家分晋(戦国時代の始まり)BC403年『論語』の成立BC400年頃
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