できごと

イギリスの奴隷制廃止法

Slavery Abolition Act 1833
AD1833年8月28日
重要度 5
ロシア帝国大英帝国デンマークオスマン帝国ポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア帝国エジプトスペインフランスモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1833年8月28日ロンドン
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概要

帝国の大半で奴隷制を廃止した。奴隷ではなく所有者に2000万ポンドの補償を払い、国はその借金を2015年まで返し続けた。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

イギリスは1807年に奴隷貿易を禁じていた。アフリカから人を買って運ぶことは違法になったが、カリブ海の農園で既に働かされている奴隷は、そのまま所有者のものだった。奴隷の子は生まれながらに奴隷であり続けた。

その制度そのものを終わらせるまでに、さらに26年かかった。1823年に奴隷制の段階的な廃止を求める協会が作られ、署名運動と集会、砂糖の不買の呼びかけが国中に広がった。元奴隷の手記や、農園での鞭打ちの記録が出版され、読まれた。女性たちの団体が特に熱心に動き、議会には数十万の署名を集めた請願が届いた。

議会の外の動きと並んで、植民地の奴隷たち自身が事態を動かした。1831年12月、ジャマイカで、バプテスト派の説教者でもあった奴隷サミュエル・シャープを中心に大規模な反乱が起きた。賃金の支払いを求める非暴力の働きの停止として始まったとされるが、やがて農園の焼き討ちに広がり、数万人が加わった。鎮圧は苛烈で、数百人が殺され、処刑された。シャープも絞首刑になった。この反乱と鎮圧の報せが、奴隷制はもう維持できないという考えを議会に広げたとされる。1832年の選挙法の改正で、農園主と結びついた古い選挙区の議席が減ったことも、法案を通しやすくした。

1833年8月28日、法は国王の裁可を得た。翌1834年8月1日から、カリブ海の植民地、南アフリカのケープ、モーリシャスなどで奴隷制が廃止された。対象となった人はおよそ80万人とされる。ただし、東インド会社が治めるインドとセイロン、セントヘレナは除かれた。

自由はすぐには来なかった。6歳以上の元奴隷は「徒弟」とされ、元の主人のもとで週に一定の時間をただで働く義務を負わされた。期間は農園で働く者は6年、それ以外は4年とされた。実態は奴隷制とほとんど変わらず、反対運動が続いた結果、徒弟の制度は1838年8月1日に打ち切られた。この日を、カリブ海の国々の多くはいまも解放の日として祝っている。

所有者には、奴隷を失う補償として2000万ポンドが支払われた。当時の政府の年間支出の4割ほどにあたる巨額で、政府は大部分を借金でまかなった。補償を請求した所有者は、イギリスに住む地主や商人、牧師、未亡人まで4万人を超え、のちの首相グラッドストンの父も多額を受け取った一人だった。奴隷だった人びとには何も支払われていない。彼らはただで働かされた「徒弟」の年月によって、むしろ所有者への補償の一部を負担させられた。補償のための借金は形を変えて国債として残り、イギリス政府がそれを最終的に返し終えたのは2015年だった。

法案の成立を待っていた人の中に、奴隷貿易と奴隷制の廃止を長年訴え、すでに議員を退いていたウィルバーフォースがいた。1833年7月26日、法案が庶民院の第二読会を通ったという知らせを病床で聞き、その3日後に亡くなっている。

補償を受け取った人びとの記録は、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジの研究者たちによって整理され、2013年からデータベースとして公開されている。補償金がどの家に入り、どの屋敷や会社や銀行に姿を変えたのかを、誰でもたどれるようになった。2018年には、イギリス財務省が、税を払った国民は奴隷制を終わらせるのに貢献したのだと誇るような発信をして、強い批判を浴びた。その税が払われた先は、解放された人ではなく所有者だったからである。

イギリスの廃止は、ほかの国々に先んじた一歩だった。フランスは1848年、アメリカは南北戦争を経て1865年、ブラジルの奴隷制廃止は1888年になる。イギリス海軍はその後、大西洋で他国の奴隷船を取り締まる側に回った。ただ、大西洋奴隷貿易で富を築いたのも、同じ国の港と銀行だった。そして解放された人びとの多くは土地を持てず、低い賃金で同じ農園で働き続けた。農園主たちは労働力の穴を埋めるために、インドや中国から年季契約の労働者を大量に呼び寄せた。

ブラジルの奴隷制廃止に関わる図版:Lei Áurea (Golden Law)
ブラジルの奴隷制廃止Wikimedia Commons Senado Imperial · Public domain

なぜイギリスは奴隷制をやめたのか。その問いには大きな論争がある。トリニダード出身の歴史家エリック・ウィリアムズは1944年、奴隷制は人道のためではなく、砂糖の農園が儲からなくなったから捨てられたのだと論じた。これに対して、廃止の時点でも奴隷制はまだ利益を生んでいたのであり、それを捨てたのは経済的な損を覚悟した決断だった、と反論する研究者もいる。ハイチ革命やジャマイカの反乱のように、奴隷自身の抵抗が決め手だったと見る立場もある。

マット・リドレーの物語「『繁栄』で読む歴史」は、この廃止を化石燃料と結びつける。石炭が蒸気機関を通して人の代わりに働けるようになったとき、人を奴隷として働かせる理由が薄れていった、という筋になる。産業革命が進んだイギリスが真っ先に奴隷制を捨てたことは、その説明に合っているように見える。だが、廃止を求めた運動の担い手の多くは宗教的な信念から動いており、機械の普及とは別の理由で奴隷制を憎んでいた。綿花の工場が動くほど、アメリカ南部の奴隷制はむしろ拡大した。そう単純ではない、という反論も同じくらいある。

出典(3)

マット・リドレー(大田直子、鍛原多惠子、柴田裕之 訳) 『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史』第7章 奴隷の解放
カール・ポランニー(野口建彦、栖原学 訳) 『大転換 市場社会の形成と崩壊』第10章(自己調整的市場という理念)
川北稔 『砂糖の世界史』第9章

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